741(天平13)年2月、聖武天皇は恭仁宮(くにきゅう)(木津川市)で、全国に国分寺を建立し、仏教による国家全体の鎮護を祈願するため、「国分寺建立の詔(みことのり)」を発しました。その際、天皇は「国分寺は国の華(国華)であり、必ず良い場所に建立するように」と命じています。そして、総国分寺として創建された東大寺(奈良市)を総本山とし、全国各地で国分寺が造営されました。

丹後国分寺跡から眺める天橋立(西から)=京都府教委文化財保護課提供

 現在の宮津市字国分(こくぶん)に所在する丹後国分寺跡は、台地上から阿蘇海と白砂青松の美しい天橋立を正面に一望する、景勝の地に立地します。特別名勝に指定されている天橋立は、古くから神聖視されていたようで、天橋立の北に隣接する難波野(なんばの)遺跡の発掘調査では、5世紀中ごろの祭祀遺構が見つかっています。この丹後国分寺跡の創建時期は奈良時代まで遡(さかのぼ)りますが、実は、聖武天皇の詔を受けて最初に造られた丹後国分寺は別の場所で、その後、現在の丹後国分寺跡に移転したとする学説もあります。しかし、仮に当初の丹後国分寺ではなかったとしても、丹後国分寺跡に立って前面の天橋立を見渡すと、聖武天皇の詔に則して丹後国の「国華」に最もふさわしい場所が選定されたように思われます。

丹後国分寺跡から出土した軒丸瓦(左)と軒平瓦=丹後国分寺提供

 1930(昭和5)年に国史跡となった丹後国分寺跡では、79年から95年にかけて、周辺部分の数カ所で小規模な発掘調査が実施されました。国分寺が創建された奈良時代の遺構は、土塁状遺構や溝など小規模な遺構が見つかっただけですが、奈良時代から平安時代にかけての遺物が出土しました。丹後国分寺が平安時代にもこの地で存続し、丹後の仏教文化の中心地であったことが推測されます。

安国寺遺跡から出土した「國」の字が入った墨書土器=宮津市教育委員会提供

 ところで平安時代の貴族たちは、丹後国の美しい景勝の地、天橋立に強い憧れの感情を持っていました。『小倉百人一首』の「大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」は、小式部内侍(こしきぶのないし)が詠んだ有名な歌で、天橋立が広く知られていたことが窺(うかが)えます。当時、小式部内侍の母である和泉(いずみ)式部がいた丹後国府の位置は近年まではっきりと分かっていませんでしたが、最近、有力な候補が浮上してきました。2016、17年度に、丹後国分寺跡から東に数百メートルの地点に所在する安国寺(あんこくじ)遺跡で宮津市教育委員会が発掘調査を実施したところ、平安時代の大きな柱穴が数基、一列に並んで見つかったのです。また、「國」字が墨書された土器も出土しています。国府に関連する建物の可能性があり、今後の実態解明が期待されます。平安時代の丹後国分寺と丹後国府は、丹後国と平安京(京都市)の間の人や物資の往来に中心的な役割を担ったと考えられます。天橋立が都で知名度を高めたのも、丹後国分寺の僧侶や丹後国府の関係者たちと平安京の人々との交流が大きく影響したと思われます。

 丹後国を代表する寺院であった丹後国分寺は、鎌倉時代になると荒廃し、キツネやオオカミなどのすみかとなってしまいました。当地にやってきた律宗の僧侶、宣基(せんき)上人は、国分寺の衰退に心を痛め、1326(嘉暦元)年から諸国を勧進して資金を集め再興にとりかかりました。国分寺再興は、鎌倉幕府の滅亡という社会の激動の中でなかなか進みませんでしたが、西大寺系律宗などから支援を受けて1334(建武元)年に再建をようやく成し遂げ、大和や丹後国内の僧侶を集めて盛大に供養の儀式が行われました。

「丹後国分寺建武再興縁起」に収められている丹後国分寺の指図=丹後国分寺提供

 再建後の丹後国分寺の伽藍の様子は、重要文化財「丹後国分寺建武再興縁起」所収の指図や、雪舟が16世紀初頭に描いた国宝「天橋立図」の中に詳しく見ることができます。戦国時代の騒乱による戦火や、江戸時代はじめの洪水に見舞われ丹後国分寺は山手側に移転しましたが、現在も国分寺跡には、金堂、塔、門に比定される礎石群が基壇と共に丹後国分寺建武再興縁起に描かれたのと同じ配置のまま地上に露出しており、往時の姿がしのばれます。

史跡丹後国分寺跡

 丹後国分寺跡を訪れると、古代、中世の人々が鑑賞した天橋立の風景を、私たちも楽しむことができます。また、隣接する府立丹後郷土資料館では、丹後地方の考古、歴史、民俗を総合的に学ぶことができます。丹後にお越しの際は、丹後国分寺跡と丹後郷土資料館へぜひ足を伸ばしてみてください。
(京都府教育庁指導部文化財保護課記念物担当 古川匠)