骨石貼り構造の本館。正面に取り付く玄関ポーチ部分は石造り(京都市下京区七条通大宮東入ル)=京都府教育委員会文化財保護課提供

 西本願寺の南に位置する龍谷大学(大宮学舎)は、明治初期の洋風建築に囲まれた味わい深い雰囲気を持つ場所で、ドラマなどのロケにもよく使われています。

木骨石貼りの構造。引金物を使って、隅石を木の柱に引き止めている=京都府教育委員会文化財保護課提供

 元は「大教黌(だいきょうこう)」という、西本願寺が僧侶養成の最高学府としてつくった学校で、本館はその中心建物として、明治12(1879)年に建てられたものです。両脇にある「北黌(ほっこう)」と「南黌(なんこう)」も同時期の建物で、現在は改造して教室として使われていますが、当初は寄宿舎でした。大教黌では、その教育に西洋の学問を取り入れて展開することを目指しており、洋風の学舎からは、その意気込みがよく伝わってきます。

 本館の重厚なたたずまいは、一見すると石造りの建物のようですが、実は、「木骨石貼(もっこついしば)り」というあまり例を見ないつくりで、建物構造の主体は木造の骨組みです。石貼りという言葉からは、薄っぺらな石が想像されますが、例えば、建物の隅部分は、厚さ15センチ以上もある石を実際に積み上げたもので、これを一つずつ、内部にある木造の骨組みに金物を使ってつなぎ止めています。

木骨石貼りの構造(柱の部分)

 建物には、およそ西洋とは縁遠いような意匠がそこかしこに使われており、和と洋が混交した不思議な雰囲気を放っています。例えば、柱の頂部は正式な西洋建築であれば、アカンサスの葉などの決まった様式があるのですが、ここでは日本的な意匠である雲が彫刻されています。基礎石にはめ込まれた床下通気口の金物は、「卍(まんじ)崩し」です。また内部では、天井に西陣織の絹織物が貼り付けられています。

 当時は、西洋建築を見た日本人大工たちが自身の解釈でその格好をまねた、「擬(ぎ)洋風建築」と呼ばれる建物が日本の各地につくられた時代です。本館も、意匠的な特異性からこの部類の建物とみられがちですが、技術的な視点から眺めると、決して見た目だけをまねしているのではないことが分かります。

 建設には、西本願寺に関わる大工が携わっています。日本の伝統技法に関する高い技量の蓄積をベースにして、恐らく洋風の手法をかなり深く理解し得たのでしょう。時にはそれをそのまま用い、時には自身の技量の中に取り込んで用いたのだろうと見受けられます。先に述べた木骨石貼り構造もその一つと言えましょう。和風を交えながらも、洋風建築として建物が放つ存在感は、「本格的」なものから醸し出されているのではないでしょうか。

本館内部(講堂)。天井に金襴織りが貼られるなど和洋の意匠や素材が入り交じって現れる
柱の頂部に彫られた雲の意匠

 本館は、1992年から5年間をかけて保存修理工事を受けました。建物が不均等に沈下していたので、全体をいったん持ち上げて浮かせておき、その下に鉄筋コンクリートの基礎をつくるという、大胆な修理を行っています。

 修理を通じて建物に接していると、折に触れてさまざまな技術を垣間見ることができ、特にここでは、先取的な意識、取り組みに当時の意気込みが伝わってきます。

龍谷大学の構内図

 当時、セメントは恐らく、民間では極めて手に入りにくい最先端の高級材料だったと考えられますが、建物を支える石積み基礎の部分に、これがふんだんに使われていました。

 現在普通に見る、丸い断面の釘(くぎ)は、この頃に西洋からもたらされたもので、私たちは「洋釘」と呼んでいます。本館に使われた釘は、日本古来の四角い断面の「和釘」ですが、その中にほんのわずかに洋釘が見つかりました。窓の周囲の石貼りと木の骨組みをつなぐ金物の止め付けの、一部にのみ使われていたもので、半信半疑ながらも、未知のものを使ってみたい欲望に駆られ、リスクの最も低い箇所に試してみたのではないかと想像されます。

龍谷大学本館

 京都の街中にある異空間のようなこの地で、当時の人々の気概に思いをはせながら、明治の世界を味わってみてはいかがでしょう。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 浅井健一)