同僚の「小谷茂くん」から贈られたサルの焼き物を抱える酒井さん=京都府綾部市

同僚の「小谷茂くん」から贈られたサルの焼き物を抱える酒井さん=京都府綾部市

嵐山に遊びに出かけた酒井さん(上段右端)や日立造船の同僚。寮の「小隊」の仲間だったという=1945年春頃

嵐山に遊びに出かけた酒井さん(上段右端)や日立造船の同僚。寮の「小隊」の仲間だったという=1945年春頃

 太平洋戦争中、軍需工場に勤務していた酒井聖義さん(92)=京都府綾部市=が、人間魚雷「回天」の改良に携わったことや、出征した同僚との思い出など、75年前の出来事を振り返った。

 私は昭和17(1942)年に奥上林村の国民学校高等科を卒業して、日立造船の桜島造船所(大阪市此花区)に就職しました。近くには喫茶店もあってね。地下街で散髪したり、映画を見に行ったり。月月火水木金金とは言うけれど、休みはありました。京都の嵐山に遊びに行ったり、今思えば青春でした。

 仕事は罫書(けが)き工。鋳物場からエンジンとかが出てきた時、ここまでは削る、穴をどこに開けると印をつけます。1年目は青年学校に通いながら仕事をしましたが、3年になるとほとんど勉強はせず、学校に行っても兵隊の訓練をさせられていました。

 私は駆逐艦のいかりを引き揚げる、揚錨(ようびょう)機が専門でした。汽車で舞鶴に運ばれるので、「これに乗ったら帰れるのになあ」とも思ったこともあります。最初は商船用のインチ規格もあったが、だんだん軍艦のミリ規格ばかりになっていきました。

 昭和20年の春だったかな。まったく違う図面を出された。「酒井、これやってみろ。これはな、(人間魚雷の)『回天』を造ったけど、あまり成功しないからもっとよいものを造れとなったんや」と。伝票には「改H」と書かれて、小さな略図と鉄の成分が書いてありました。

 これが本体になると言われて、図面通りに指示をしました。ほかの部署で加工し、精密なところを造ろうと台に置いたら、下の部分ががたがた。「こらあかん、あきませんわ」と、後ろで見ていた海軍の偉(えら)いさんに言いました。鉄を鋳物場から出てすぐに加工したから、だめだった。偉いさんも「あかんなあ」と言って、それっきりでした。

 あれはできなくてよかったんです。一つこしらえたら一人死ぬ。ひょっとしたら「おまえが造ったんだから、おまえが乗れ」と言われていたかもしれない。

 6月から毎日、空襲警報。淀川の鉄橋を歩いて渡ったこともありました。下は死体でいっぱい。暑さで腐って、においがひどかった。爆撃は怖くなかった。みんなで一緒に死ねるから。でも機銃掃射は違う。グラマンが来たときは、逃げる間もなく撃たれ、動けなかったですね。

 8月15日は暑かった。広場に正午に集まれと言われた。ひょっとしたら日本負けたんちゃうやろかと言ったら、先輩に「おまえはなんということを言う。神国日本が負けるはずがない」と怒られました。それから15分もたたないうちに、放送があった。意味はよく分からんかったが、負けたんだな、死なんですんだなとほっとした。よく泣く人の映像があるが、おらんかった。みんなやれやれという感じでした。

 同僚はほとんど兵隊に行きました。信楽の小谷茂くんとは仲がよく、何でも話しました。兵隊に行ったはずで、別れのときお父さんが作ったというサルの置物をくれました。「これを酒井、やるわ」と言ってね。子どものために「難を去る」という意味でこしらえたもので、今も大事にしています。雲井村(現・滋賀県甲賀市信楽町)の勅旨の出だと聞いていたから、戦後探しに行きましたが、会うことはできず、どうしているか分かりませんでした。