「戦争のことは絶対に忘れられたら困る」と話す今西さん(京都府南丹市園部町)

「戦争のことは絶対に忘れられたら困る」と話す今西さん(京都府南丹市園部町)

 75年前の敗戦により、朝鮮半島北部から北緯38度線を越えて京都まで引き揚げてきた京都府南丹市園部町の今西儀夫さん(83)は5年前、「京都・戦争体験を語り継ぐ会」を立ち上げ、講演会や対談を催してきた。今夏は新型コロナウイルスの影響で活動ができていないが、「戦争はこんなにひどいものなのだと若い人に伝えていきたい」との思いは募る。

 今西さんは、日本の植民地だった現在の北朝鮮の黄州で生まれ、両親と妹、祖母と暮らしていた。「平壌にあった三中井百貨店や市電が走っていたのを覚えています」

 桜国民学校3年だった1945(昭和20)年8月、敗戦で生活は一変する。日本人は財産を没収され、まとまって収容された。ソ連兵に銃剣を突きつけられると、恐怖で声すら出なかった。若い女性は頭を丸坊主にし、床下に潜んだ。混乱の中、内地まで帰れないと諦めたのか、自死をほのめかす老夫婦もいたという。会社社宅を転用した収容所にいた10月17日未明、今西さんは家族と鉄条網をくぐり、脱出した。

 野宿をしながら主に夜間、山道を歩いた。「38度線を越えるまで頑張れよ、が合言葉でした」。氷が張るほどの寒さ。川の水を飲み、干し飯で空腹を満たした。朝鮮人から「裸で帰れ」などと罵声を浴びた。外套(がいとう)や眼鏡など所持品を奪われた人もいた。

 「黄州では近所の朝鮮人と仲良く暮らしていました。ただ、後になって分かりましたが、創氏改名など日本が朝鮮でどんなことをしてきたか。日本人は憎しみの対象だったんでしょう」

 約200キロを歩き、38度線を通過したのが11月1日。畑の中に一直線に有刺鉄線が張られていた。近くの開城には逃げてきた日本人が大勢いた。移動した京城(ソウル)では、おにぎり一つを家族5人で分けて食べたこともあった。そこから貨車に乗って釜山にたどりついた。数日後、興安丸に乗船し、山口県・仙崎に上陸した。京都府京丹波町に着いたのは11月19日。脱出から約1カ月後だった。

 「私らは運が良かった。無事に帰れない人もいたわけですから」

 今西さんは戦後、郵便局に勤め、合唱に打ち込んできた。5年前に京都市内で引き揚げ体験を話す機会があり、参加者の中から意気投合した9人と戦争体験を語り継ぐ会を結成した。メンバーは同じように引き揚げや、強制疎開で自宅を壊された経験を持つ人やその子たちだ。

 会は京都市内で講演会を開いたり、文集を作成したりしてきた。今年は私立高で生徒とのワークショップを開催する予定だったが、新型コロナで中止になってしまった。

 今西さんは「コロナが落ち着いたら活動したい。私も80歳をすぎ、いつまでも話せるわけではありません。若い人は戦争を学ぶだけでなく、戦争に学んでほしい」と願う。

≪38度線≫ 第2次世界大戦の終結で、日本領だった朝鮮半島は北緯38度線を境に、南側に米国軍が、北側にソ連軍がそれぞれ進駐、占領した。現在の韓国と北朝鮮の国境とは異なる。