戦時の体験を手話で振り返る今江さん(近江八幡市の自宅)

戦時の体験を手話で振り返る今江さん(近江八幡市の自宅)

 3歳のときの高熱で耳が聞こえなくなった滋賀県近江八幡市の今江稔子さん(88)は、学徒動員され「電波兵器」の部品を作る作業に従事したという。京都新聞社の取材に、空襲におびえた日々を振り返り、平和への願いを語ってくれた。

 私は京都府宇治田原町に生まれ、3歳の時に高熱が出て耳が聞こえなくなりました。滋賀県立聾話(ろうわ)学校(当時は草津市)の予科(幼稚部)に入学し、高等部を卒業するまで寄宿舎で生活しました。

 戦争が始まったのは初等部3年の11歳の時。必勝祈願のため、朝ご飯の前に初等部から高等部まで「必勝」と書かれたたすきを掛け、近くの小汐井神社へみんなで並んで歩いて行きました。眠たくて、冬は寒くて手がかじかみましたが我慢しました。

 中等部1年だった1945年ごろに学徒動員され、男女別々の工場で作業をしました。まず登校して、(相手の口の動きを読み、発声する)口話(こうわ)の練習をしてから、女子は学校近くの「二井工場」(正式名は「二井製作所草津工場」。現在のニチコンの母体)へ。小さな円盤状の物体の側面に、オレンジ色のねばねばとしたものを巻くように筆で塗りました。先生から「電波兵器に使う」という説明を受けました。学科の授業は全くありませんでした。

 警戒警報や空襲警報が出ると先生は大きな太鼓をドンドンドンとたたきます。私たちは太鼓の振動で警報を把握しました。警戒警報が出るたびに、母が縫って持たせてくれた防空頭巾やマスクをつけて待機し、敵機が近づいて空襲警報になると学校敷地内の防空壕(ごう)へ逃げ込みました。その際は、先生が「早く早く」と身ぶりで生徒に避難を促します。小さい子もみんなに無理に引っ張られるようにして懸命に走っていた。解除後は敵機がない空を見上げて、やれやれと胸をなで下ろしたものです。

 学校の運動場にサツマイモ畑があり、先生と生徒がペアになって順番に番をしました。8月15日の終戦は、帰省していた宇治田原町の自宅で親から聞きました。

 戦後、米国から聾話学校へ支給された「ララ物資」の中に干しぶどうが入った黄色いパンがありました。戦時中はおかゆに梅干しだけだったので、寄宿舎でおやつの時間にみんなと食べたあのパンは極上の味でした。

 終戦から3年がたち高等部1年だった時、来日中のヘレン・ケラーさんを聾話学校の生徒が滋賀県内の駅ホームで歓迎しました。私は生徒を代表して歓迎の言葉を述べました。彼女は(秘書の)トムソンさんの唇に手を当てて話を読み取り、トムソンさんはヘレン・ケラーさんの手のひらに触ってコミュニケーションを図る様子を、目の前で見た。今でもはっきり覚えていて心に残っています。

 聾話学校には茨城や大阪、岡山、熊本のほか、満州(現中国東北部)やカナダからも聞こえない日本人が来ていた。今と違って手話は学校で禁止されていましたが、私の場合は寄宿舎で先輩が使うのを見て自然と身につきました。

 今年で戦後75年。戦争はもう嫌です。駄目、あかん。平和な世の中が続いてほしいです。