福知山市から国道176号を日本海側へ向かうと、峠道の先に加悦谷と呼ばれる地形が開けてきます。三方を山に囲まれたその土地は、今から1600年ほど前に、丹後地域を代表する大型の前方後円墳である蛭子山(えびすやま)古墳をはじめ、作山(つくりやま)古墳群など数多くの古墳が相次いで造営された重要な地域でした。

日吉ケ丘遺跡から出土した多数の管玉。周囲には赤い顔料が厚く散布されている(与謝野町教委提供)

 1999年、蛭子山古墳の北側の丘陵で町営住宅建設の計画が持ち上がりました。加悦谷を一望できるこの土地で、加悦町(現与謝野町)教育委員会が発掘調査を実施したところ、今から約2100年前の弥生時代中期中葉から後葉の建物跡や、集落の周りに巡らされた環濠(かんごう)の一部が見つかりました。

日吉ケ丘遺跡から出土した砥石(といし)と鉄製品(与謝野町教委提供)

 ここでは複数の鉄器が出土しました。いずれも10センチ足らずの小さなものでしたが、その中には、中国は漢の鋳造技術で作られたと考えられる鉄斧(てっぷ)がありました。弥生時代中期の近畿地方ではまだ鉄器は大変に貴重で、ほとんど見つかりません。そうした中、当時の最先端の技術は丹後の地に確実に届いていたのです。この発見は、丹後地域の重要性を改めて考えさせるものとなりました。

 そして、最も注目されたのは長辺32メートル、短辺約20メートルの範囲を溝で四角く区画した「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」と呼ばれるお墓の発見でした。方形周溝墓は、弥生時代中期には近畿から関東の各地域まで、広く採用されたお墓の形ですが、日吉ケ丘遺跡のものは、同時期のものの中でも規模が大きいだけでなく、他にも注目されるところがいくつかありました。

日吉ケ丘遺跡全景(与謝野町教委提供)

 ひとつは、墳丘の斜面部分に貼り付けられた平らな石の存在です。近畿地方の方形周溝墓は基本的に溝を掘るだけで、石などで飾り立てることはしません。そうした特徴は、遠く離れた石見や出雲(いわみいずも)など、山陰地方のお墓で発見されているものと共通するものだったのです。

 いま一つは、被葬者の頭部と推定される位置から出土した多量の管玉(くだたま)です。近畿地方では、弥生時代中期のお墓から副葬品が出土すること自体が珍しいのですが、その数、実に670点を越えるものであったことが注目されました。しかも、玉の出土した範囲には真っ赤な顔料が、厚く散布されていたのです。

日吉ケ丘遺跡から出土した土器(与謝野町教委提供)

 管玉は、碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩製で、その直径は1・6~2・6ミリメートルと細身のものばかりでした。玉類は、頭部付近に面を成すように整然と並んだ状態で出土したことから、布などに縫い付けたものだったとの意見がある一方で、冠の垂(たれ)飾りであったとも、首飾りなどの糸を切ってばらまいた跡だという意見もあり、さまざまな議論を呼ぶことになりました。

 発掘調査の翌年には加悦町教育委員の主催で「丹後最古の王墓『日吉ケ丘遺跡』出現のナゾに迫る」というシンポジウムが開催されるなど、地域の人々にその重要性が理解されていきました。そして2005年には、日吉ケ丘遺跡の背後に展開する丘陵上にある弥生時代の終わり頃から古墳時代初めにかけて築かれた墳墓28基と合わせて、「史跡日吉ケ丘・明石(あけし)墳墓群」として国の指定を受け、保存されることになりました。

日吉ケ丘遺跡

 日吉ケ丘遺跡は、与謝野町立古墳公園のすぐ北側に位置しています。今は埋め戻されて旧状に復していますが、北東1・2キロメートルには、国の重要美術品に認定されている弥生時代中期中頃の流水文銅鐸として知られる須代銅鐸が出土した丘陵もあり、古代に思いをはせるには格好の場所となっています。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 藤井整)