京阪電鉄宇治駅を降りると目の前にあるのが宇治橋です。宇治橋以南の宇治川沿いには、左岸に平等院、右岸に宇治上神社(うじがみじんじゃ)や恵心院等の社寺が立ち並び、その歴史や文化に触れようと多くの参拝者が訪れます。今回は、右岸に建つ国宝宇治上神社本殿について紹介します。

宇治上神社本殿全景(府教育委員会提供)

 宇治上神社は宇治川を挟んで平等院と向かい合う位置に鎮座します。境内には本殿(平安時代後期)、拝殿(鎌倉時代前期)及(およ)び摂社春日神社本殿(鎌倉時代後期)等が建ち、世界文化遺産「古都京都の文化財」を構成する17社寺城の一つとなっています。創立については、神託を受けた醍醐天皇が延喜(えんぎ)元(901)年に創建されたともいわれますが、明らかではありません。近世以前は「離宮上社」・「離宮八幡本社」等と称し、南方に鎮座する宇治神社とともに、「離宮社」等と総称しました。

明治修理後(現在)の側面図(府教育委員会提供)

 大吉山(だいきちやま)を背にして建つ本殿は、向かって右側の左殿(さでん)に菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を、中央の中殿(ちゅうでん)に父である応神天皇を、左側の右殿(うでん)に兄である仁徳天皇を祀(まつ)り、これら内殿(ないでん)3棟を含め全体を幅5間、奥行3間とする複雑な建築です。その造営は、平安時代後期に各内殿を建立し、その後鎌倉時代に全体を一つの建物として整えたと考えられています。現存する最古の神社本殿建築なのですが、造営当初の姿や改築の経緯の詳細は分かっておらず、謎の多い建物です。

明治の修理前に撮られた写真(府教育委員会提供)

 2013年から15年にかけて行った本殿及び拝殿の屋根葺(ふ)き替え修理では、その謎の一端を解き明かす発見がありました。本殿の檜皮葺(ひわだ)き屋根をめくると、天井との間の空間にいくつかの棟札(むなふだ)がありました。中でも注目したのが、元禄(げんろく)10(1697)年と享保(きょうほう)9(1724)年修理時の棟札です。前者には「御本社棟新造営 四尺前寄テ 三尺ノ上リ」、後者には「御本社棟新造営 壱尺五寸上リ」の記載がありました。

 この文言の意味を考える上で重要なのが、明治44(1911)年に京都府社寺課(現在の文化財保護課の前身)が行った解体修理時に撮影、作製した写真と図面です。修理前後の写真からは、明治修理によりその姿を大きく変更したことが分かります。

明治修理時に作製された図面。緩やかな屋根の勾配は、果たして元禄修理前の姿なのか?(府教育委員会提供)

 特に顕著なのが、修理前は、正面の桁の位置が低かったこと(窓まわりに注目)、また、屋根の頂部が高かったこと(屋根のそり上がる勾配に注目)です。つまり、明治修理前の屋根は、現在見る姿よりも勾配の急なものだったのです。では、なぜ屋根の勾配を緩い姿に変更したのでしょうか。ここで登場するのが、先述の棟札です。

 享保修理時の棟札にある「御本社棟新造営 壱尺五寸上リ」を、「屋根の頂部を支える棟木(むなぎ)を、それまでより1尺5寸(約45センチ)上方に位置を変え新調した」と読むと、明治修理では、棟木の位置を下げることで、享保修理前の姿である勾配の緩い屋根に復原した、と考えることができます。

神社内部の様子。手前から左殿・中殿・右殿(府教育委員会提供) 

 同様に考えると、元禄修理時の棟札にある「御本社棟新造営 四尺前寄テ 三尺ノ上リ」は、「棟木を、それまでより4尺(約1メートル20センチ)前方に、3尺(約90センチ)上方に、位置を変え新調した」と読めます。

 そこで、現在の棟木を元禄修理前の位置に戻す様に考えると、そこにあるのは壁から突き出た部材です。明治修理時に作製した図面には、そこを頂部として屋根を造ったものがあり、当時の修理技術者が元禄修理前の姿を文字通り思い描いていたことが分かります。しかし、屋根の勾配は極端に緩く、これでは雨漏りを生じさせかねないことは否めません。そんな事情もあってか、明治修理では、元禄修理後(享保修理前)の姿に復原するべく整えたようです。

宇治上神社

 このように今回は、江戸時代の元禄修理から明治時代の修理にかけての変遷の謎を解くことができました。しかし、元禄修理前は本当に図面の様な姿だったのか、もしそうであれば、どうやって建物を維持していたのか、さらに遡(さかのぼ)って平安時代の造営当初はどんな姿だったのか。そんなことを考えながら参拝するのにも良い季節となりました。真実はいつも一つです。さぁ、謎を解き明かしに出掛けましょう。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 竹下弘展)