いしだ・しょうた 1983年生まれ。京都市立芸術大、大学院で日本画を学ぶ。美術のあり方を異分野の研究と並べて考え、創作を研究・実践。日本画制作の他、科学イラストも手掛ける。

 私は日本画制作と並行し、科学者たちとの協働活動にも力を入れている。具体的には研究会報の挿絵から美術と科学の哲学議論まで、さまざまな分野に及ぶ。

 科学者の研究姿勢は、絵画の創作にも学ぶべき点が多い。一つの計測データにいくつも疑問を持ち、一つの実験装置を建物の構造から検討して用意する。対象への合理的な向き合い方は、一味違うヒントとなる。

 何より科学者とのコミュニケーションの中で生じる理性と感性の絡まりや、互いの専門的な概念を翻訳しあうのが面白い。画家の絵画制作だけにとどまらず、別の可能性が見えそうな気がしている。

 一般的に、感性と理性は遠い関係に思われるが、美学者今道友信氏が『美について』で語るように、感性は理性の作用で磨くことができる。人は本を1冊読む度に、日常を新しく見ることができる。科学哲学者ノーウッド・ハンソンが主張した「観察の理論負荷性」にも、私は理性と感性の良き関係を見いだしている。

 素人の理解(あるいは歓迎すべき誤解)かもしれないが、「観察の理論負荷性」とは「何を観察・発見できるかは、観察者が蓄えてきた知識や理論に基づく」ではないか。感性は、勉強や調査で後天的に設計可能なことを示しているのだと思う。

 大ざっぱに科学を理性的なものとした場合、その精神にも触れておきたい。日本では、科学の実利的側面に目を向けているが、科学発祥の地・西洋の人々の歴史や文化、風土など精神的要素も忘れてはならないだろう。この点を踏まえて先述した理性との相互作用を経て、感性は生きたものになるのではないか。

 協働活動は、科学精神を理解するのにはぜいたくな機会である。研究が専門ごとに分かれて干渉しないたこつぼ化が唱えられて久しい現在、科学と芸術のような異なる分野の協働実践はチームはもちろん、個人にも必要である。領域を区切った探求には、限界がある。

 芸術や科学といった区分以前の世界に立ち戻ることで、限界を乗り越えることはできないだろうか。科学や日本画が、そう呼ばれる前の混沌(こんとん)とした状態での探求も、目指すところは今と変わらなかったはずだ。

 私は非美術の分野で、一度全身でぶつからなければ日本画は拓(ひら)いていかないと感じる。科学を美術の言葉に置き換え、自分の辞書で世界を読むことが必要と感じる。先人の作品に敬意を払いながらも、現状では確かめることのできない理想を、勇気を持って描く。日本の絵が現代において何を考えることができるのか。自問自答していきたい。(画家)