米軍が撮影した、旧海軍の五老岳防空砲台のものとみられる高角砲=米国立公文書館所蔵

米軍が撮影した、旧海軍の五老岳防空砲台のものとみられる高角砲=米国立公文書館所蔵

五老ケ岳公園として整備された現在の山頂(舞鶴市上安久)

五老ケ岳公園として整備された現在の山頂(舞鶴市上安久)

舞鶴湾周辺の地図

舞鶴湾周辺の地図

フィルムに映る五老岳防空砲台跡とみられる建物。一帯は五老ケ岳公園として整備されている=米国立公文書館所蔵

フィルムに映る五老岳防空砲台跡とみられる建物。一帯は五老ケ岳公園として整備されている=米国立公文書館所蔵

現在の五老ケ岳公園と思われる場所から米軍が撮影した舞鶴湾の様子。中央に見える大きな島が戸島だ=米国立公文書館所蔵

現在の五老ケ岳公園と思われる場所から米軍が撮影した舞鶴湾の様子。中央に見える大きな島が戸島だ=米国立公文書館所蔵

 山頂に放置された高角砲。眼下には舞鶴湾が一望できる―。米軍が太平洋戦争終戦翌年の1946年に、京都府舞鶴市の砲台跡などを撮影したカラーフィルムが米国立公文書館に所蔵されている。戦後75年。戦争体験者が少なくなる中、撮影場所はどこなのか、探った。

■「五老岳」か、現在は展望台に

 フィルムは1946年5月31日から6月4日に撮影され、冒頭には舞鶴市内の山頂にある緑色の高角砲や砲座が映り、説明には英語で「銃を使った要塞(ようさい)」と記されている。

 山頂から撮影した眼下の景色には、北東に「軍港」、北に「舞鶴湾の入り口」との説明が付けられ、戸島が浮かぶ舞鶴湾と、青葉山、建部山、湾内には艦船が見える。明確な場所が記されていないため、舞鶴引揚記念館に問い合わせると「五老岳では」との答えが返ってきた。

 五老岳は標高約300メートル。山頂にある五老スカイタワー(上安)を記者が訪ねると、舞鶴湾が一望できる眺望を観光客が楽しみ、写真を撮影するなどお盆の休日を満喫していた。眼下の風景を映像と見比べると、入り江や山の様子などぴったり一致したが、砲台跡らしきものや説明書きは見当たらなかった。

 舞鶴市での戦争実態を調査している「戦争・空襲メッセージ編さん委員会」の関本長三郎さん(77)=同市大波上=は「映像は初めて見た。敗戦後の舞鶴を生々しく感じる。青葉山の位置からして五老岳の砲台で間違いない」と断言した。

■空襲当日、低空の敵機に砲撃できず

 舞鶴市史によると、1897(明治30)年に舞鶴要塞砲兵大隊が開設され、湾内に進入する艦船に対応するため、陸軍が葦谷や槙山などに砲台を構築した。第2次世界大戦では戦闘機による空中戦に移ったため、海軍が軍港を守るために防空砲台を設置。五老岳山頂にも「舞鶴海軍警備隊 五老岳防空砲台」を建設し、面積は15万平方メートルと記されている。

 同会が編集した舞鶴空襲の証言集には、五老岳防空砲台で勤務した男性の証言が収録されている。男性は終戦間近の1945年7月1日付で五老岳防空砲台に配属され、17歳だった。兵員は129人、8センチ砲3門、12・7センチ砲4門、13ミリ機関銃4基。砲弾の重さは1発30キロあったという。

 舞鶴空襲のあった45年7月29日、男性は砲台におらず、30日に戻り、米を運び上げる作業をした。「砲台は周辺の山から低空で攻撃してくる戦闘機には砲撃できません」と証言したと記されている。旧海軍施設などが標的となり、2日間で180人が犠牲になった。関本さんは「砲台の地図も見たが、弾薬庫や宿舎が記されていた」と振り返る。

 市史によると、戦後、五老岳に米軍のレーダー基地が一時置かれた。その後、砲台跡は放置されたが、59年に「五老ケ岳公園」として整備された。市文化振興課は「整備時に砲台の痕跡はほとんどなくなった」とする。75年前の夏、今は平和な観光地の山頂で敵機の襲来に備える人々がいた。米軍の撮影したカラーフィルムは、同公文書館のウェブサイトで閲覧できる。舞鶴の戦時の様子を物語る貴重な映像と言えそうだ。