2019年の修学旅行で、長崎に投下された原爆の話を語り部から聞く園部中の生徒たち(長崎市・平和公園)=園部中提供

2019年の修学旅行で、長崎に投下された原爆の話を語り部から聞く園部中の生徒たち(長崎市・平和公園)=園部中提供

生徒と作り上げた平和に関する冊子を手に、「諦めずに記録を残していくことが大事だ」と語る原田久さん(南丹市園部町・旧西本梅小)

生徒と作り上げた平和に関する冊子を手に、「諦めずに記録を残していくことが大事だ」と語る原田久さん(南丹市園部町・旧西本梅小)

 戦後75年の節目を迎え、戦火の体験者は数少なくなった。社会の関心も薄まりつつある。戦争の記憶を引き継ぎ、教訓を得ることが、再び戦争を起こさせない道しるべとなる。「鍵は教育だ」と、京都府の丹波地域でも教育関係者らが中心となって、次世代に戦争を伝える取り組みに情熱を注いでいる。

■ドイツ国民はなぜヒトラーに傾倒したのか、自分は熱狂しなかったのか

 米国を鬼畜と思い込まされた戦時。琉球大元教授の西岡尚也大阪商業大教授(62)=南丹市園部町=によると、沖縄戦で、捕虜になれば殺されると信じた住民はガマ(自然壕(ごう))で集団自決を選んだ。別のガマの人々は米兵と対話し、保護されたという。思い込みを排し、自分で考える大切さが伝わる逸話だ。

 「事実を押さえ、雰囲気に流されずに物事を突き放して見られる姿勢をどう育むか」。丹波地域の戦争の記憶を調べている元高校教員、原田久さん(68)=南丹市園部町=は話す。「ドイツ国民はなぜヒトラーに傾倒したのか。僕らなら熱狂しなかったのか」。世界史の授業の折節で生徒と同じ目線で考えた。

 体験も重視した。生徒たちに原爆で溶けた瓦を見せ、軍需物資のタングステンを掘った亀岡市薭田野町の大谷鉱山跡に共に入った。「重さや匂いを通じて得られた真実が生徒を変える」と語る。

 高校時代に原田さんの指導を受けた京都府京丹波町の介護事業所代表、稲葉耕太さん(36)は「相手の立場に立つ大切さを感じた」と振り返る。施設の入所者から戦争体験を聞き取っている稲葉さんは「その時、その立場にいたらどうかを考える」という姿勢を大事にしながら、戦争や平和への思いを深めている。

■若い教員が平和への関心持ちにくく、現場は多忙

 社会問題を学校で扱うのは難しくなっている。戦争や原爆の体験者が職場に多く存在し、若い教員が平和に自然と関心を持つ時代は去った。教育現場の多忙感も活動を阻む。

 そんな中、平和学習に力を入れる学校がある。南丹市園部町の園部中は2017年、修学旅行先を長崎県に変更した。原爆が投下された長崎市を訪れ、語り部の話に耳を傾ける。若手教員を講師とする研修会も開く。今年8月の会では、戦争で重用された丹波マンガンの歴史を若い教員が解説し、知識と関心を深めた。

 いずれも國府常芳校長(60)が発案した。原爆を描いた漫画「はだしのゲン」の作者を招いた講演会を学生時代に企画するなど、かねて平和について考え続けてきた。来春の退職を控える國府校長は「平和への思いを持ち、学び続けられる教員を育て、継承したい」と力を込める。

 学校に並んで重要な役目を果たすのが文化施設だ。南丹市園部町の南丹市立文化博物館は戦争関連の企画展を定期的に開く。五輪と戦争を主題とする今年の企画展は五輪の延期で見送ったが、秋頃に戦争関連の展示を検討する。井尻智道館長(49)は「取り組みが絶えないよう、細い糸でもつなぎたい」と強調する。

 体験者の多くが鬼籍に入り、資料の散逸も進む。他国を排撃するヘイトスピーチも聞こえる。原田さんは「草むらに潜む魔物が人々をからめ捕ろうとしている」と危ぶむ。何ができるのか。何をすべきなのか。原田さんと共に活動する元高校教員、田中仁さん(69)=南丹市園部町=は「嘆いても始まらない。何とかしようと思った人間が一歩一歩やるしかない」と訴える。原田さんもうなずく。「諦めないことが大事。こつこつと記録し、形にしていく。それが力になる」