予科練生ら82人が機銃掃射の犠牲になった惨事を語る山田登さん(滋賀県栗東市手原)

予科練生ら82人が機銃掃射の犠牲になった惨事を語る山田登さん(滋賀県栗東市手原)

予科練時代の山田さん

予科練時代の山田さん

 太平洋戦争中、予科練(海軍飛行予科練習生)から海軍航空隊に入った滋賀県栗東市手原の山田登さん(93)は、機銃掃射に倒れた10代の戦友たちの遺体を埋める作業に従事した。戦後75年、「戦争の本当の姿を伝えたい」と初めてメディアの取材に答えてくれた。

 私は島根県で生まれ、小学2年生の頃に親の仕事の関係で日本の植民地だった朝鮮の京城(現ソウル)に引っ越しました。現地の高等工業学校で学んでいた1944年の暮れ、予科練に志願することにした。

 飛行機への憧れがあったわけではありません。当時、徴兵年齢がさらに引き下げられるといううわさが流れた。どうせ兵隊になるんなら早くなろうと、時代の雰囲気に後押しされて志願しました。

 18歳になって間もない45年春ごろ、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)を接収して設置された宝塚海軍航空隊に入りました。手旗信号などの訓練を受ける日々ですが、リュックを背負って裏山を亀のようにはって進む匍匐(ほふく)の訓練があった。あれは本土決戦に備え、敵の戦車に突っ込む特攻の訓練だったのではないか。

 私たちは淡路島での砲台建設に駆り出されることになった。当時は説明がなかったが、これも米軍の侵攻に備えるのが目的でした。いったん徳島県の撫養(むや)(現・徳島県鳴門市)へ船で渡り、そこから淡路島に向かうため待機しました。

 45年8月2日、先発隊を乗せた船「住吉丸」が撫養を出発した。私は後発隊で、待機していました。淡路島まであと少しという鳴門海峡上で、住吉丸は米軍機の機銃掃射を受け、82人が亡くなった。大半が10代の少年でした。

 しばらくして私たちも出航し淡路島に着きました。住吉丸は漁船に引かれて着岸していて、浜辺に遺体が並べてあった。私たちは遺体を担架に乗せて山の中腹に穴を掘って投げ入れた。遺体からは腸や脳みそが出たりしていました。

 翌日には砲台建設を命じられました。多くの仲間が亡くなった直後でしたが、死ぬのは当たり前、という感覚。異常な精神状態でした。私は測量技術を持っていたので、終戦の日まで測量を続けました。遺体を埋めた翌朝、上官に「土から手を出してる奴がおるぞ」と言われ、遺体に淡々と砂をかけ直したことを今も鮮明に覚えています。

 予科練での経験を自分からメディアに語るのは初めてです。兵隊に行った人はもはや90代以上。今、語っておかないと戦争の本当の姿が伝わらないと思ったからです。

 戦後、鳴門海峡を望む淡路島の丘に82人の墓碑と観音像が整備され、私も慰霊に何度も訪れました。眺めがとてもいい所です。若い人もぜひ訪れて、戦争の歴史を知り、犠牲者を供養してほしい。