亀岡盆地ののどかな田園風景の中に、丹波国分寺はたたずんでいます。昭和3(1928)年に国の史跡指定を受け、地元の人たちの努力もあって、史跡とその景観は守られてきました。

 現在は江戸時代に再興された本堂と門などを残す、とても趣のあるお寺ですが、寺伝では戦国時代末期に明智光秀によって堂宇が焼かれたとされるなど、激動の歴史の舞台となった場所でもありました。

 丹波国分寺は天平13(741)年、聖武天皇が国家を鎮護することを目的として、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるよう指示した国分寺建立の詔を契機として造営されました。

 創建時には、西に金堂、東に七重塔を配し、中央奥側には講堂などの主要伽藍(がらん)が並んでいました。今でも現地を訪れると、お寺の片隅に七重塔の礎石17個が整然と残されているのを見ることができます。お寺は南北約243メートル、東西約248メートルの広さを誇っていたことが分かっています。

境内に残る七重塔の礎石(亀岡市千歳町国分)=亀岡市教育委員会提供

 建立の正確な時期は分かっていませんが、亀岡市教育委員会による発掘調査では、奈良時代の終わり頃の瓦が出土していることから、国分寺建立の詔からしばらく時間を経てから建てられ始めたと考えられています。

 平安時代に編まれ、古代の法律を集めた延喜式の中には、丹波国分寺に造寺料として稲四万束が充てられたことが記されています。このことから、平安時代に入っても未完成で、国分寺の完成までには長い年月が必要だったことがうかがえます。

 この記録は発掘調査によって裏付けられました。丹波国分寺から、奈良県の唐招提寺金堂の軒瓦として使われたものと同じ型枠で作られた瓦が見つかったのです。

国分寺の本堂。1774年に再興された=亀岡市教育委員会提供

 これは平安時代の初めごろのもので、国分寺の造営が遅れていることに対し、中央政府からの支援があったことを示す資料だと考えられています。このような待遇は山陰道沿いの諸国に設けられた国分寺の中では唯一のもので、そこから丹波国分寺が中央政府にとっても重要な位置を占めていたということがうかがえます。

 このほか、丹波国分寺では造寺に先立って梵鐘を鋳造した遺構も見つかっており、国分寺がどのように造営されたのかを知る手がかりとなりました。また、奈良時代の三彩火舎など貴重な遺物も出土しており、これは昨年度に京都府の暫定登録文化財となりました。

空から見た丹波国分寺跡(右が北)=亀岡市教育委員会提供

 中央政府とのつながりを持ち、隆盛を誇った丹波国分寺ですが、平安時代末の修理の記録の後は、鎌倉時代後半と戦国時代末期に焼失したという記録を最後に、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。その後しばらくの間、堂宇がない時期が続いたとみられています。

発掘調査で見つかった金堂跡=亀岡市教育委員会提供

 現在、われわれが見ることができる護国山国分寺は、安永3(1774)年に護勇比丘(ごゆうびく)によって再興されたものです。この中興の祖となった人物のお墓も、2017年に国史跡の範囲として追加指定され、丹波国分寺の歴史を知る上で重要な範囲が、広く保護されることとなりました。

丹波国分寺跡

 この丹波国分寺の西方約500メートルのところに、もう1カ所同じ時期のお寺の跡(御上人(おしょうにん)林(ばやし)廃寺跡)が見つかっています。金堂や講堂を備えたそのお寺からは、丹波国分寺で使われた瓦と同じものが見つかっていることから、ここが丹波国分尼寺であったとみられます。全国でも、国分寺と国分尼寺の両方の存在が明らかになっているところは意外なほど少なく、貴重な事例です。  あまり知られていませんが、丹波国分寺は水戸黄門やNHKの連続テレビ小説「あさが来た」などのロケ地にもなっています。訪れたことがない方でも、知らないうちに目にされているかも知れません。初秋にはヒガンバナが美しく咲き誇ることでも有名です。みなさんも、現地へ足を運んでみられてはいかがでしょうか。
(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 藤井整)