浄瑠璃寺は京都府の南部、奈良市との府県境に近い木津川市加茂町の山間に位置する古刹です。山号の小田原山は、一帯が平安時代以来、「小田原」と呼ばれる仏教修行道場であったことに由来しています。

 現在の浄瑠璃寺の本尊は、本堂(国宝)に安置されている九体の木造阿弥陀如来坐像(国宝)です。浄瑠璃寺が九体寺(くたいじ)とも呼ばれる由縁で、坐像が横一列に堂内に坐す様相は荘厳です。

本堂内部の阿弥陀如来坐像=木津川市教育委員会提供

 同様に、本堂は九体阿弥陀堂とも呼ばれます。これは仏教経典『観無量寿経』に説かれた「九品往生」の教えを造形的に表現したもので、平安時代の浄土信仰の高まりの中で成立しました。

 浄瑠璃寺本堂は12世紀に建立された建物ですが、記録上、最も古い九体阿弥陀堂は平安時代中期の寛仁4(1020)年に藤原道長が建立した法成寺(現在は廃寺、京都市上京区の鴨沂高付近)の阿弥陀堂でした。。

本堂と、再整備された園地(2017年6月)=木津川市教育委員会提供

 次は承暦元(1077)年に白河法皇が建立した法勝寺の阿弥陀堂で、以降、藤原忠実の宇治九躰堂、鳥羽法皇の鳥羽離宮内の諸御堂などが次々に建立されました。

 このように九体阿弥陀堂は平安時代中期から鎌倉時代後期頃にかけて、平安京の近郊に上皇、院家、貴族・武家などの有力者によって建立された仏堂で、発願者が極楽への往生を願って建てたものでした。記録上、約30棟があったようですが、浄瑠璃寺本堂は現存する唯一の九体阿弥陀堂です。

 浄瑠璃寺本堂の前面には東西約40メートル、南北約50メートルの園池が広がっています。園池の対岸にあたる東岸の高台には三重塔(国宝)が建ち、園池の中央には中ノ島が造られています。このような、西方に阿弥陀堂を、その前面(東方)に園池や島を配置する庭園を、今日、浄土庭園と呼んでいます。浄瑠璃寺の本堂と園池の関係は、大きくは平等院の鳳凰堂と阿字池の関係と同じで、阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土世界の様子を模しています。

 昭和40(1965)年に、浄瑠璃寺庭園は平安時代の浄土庭園を今日に良く伝えるものとして国の史跡及び名勝に、昭和60(1985)年には特別名勝及び史跡に指定されました。特別名勝に指定されるきっかけとなったのが昭和50~51年の整備事業でした。

 この時は、中ノ島などで発掘調査が行われ、その成果に基づき、一部で平安時代の遺構を再現する整備工事が行われました。しかし約40年が経過し、再び庭園の各所で傷みが生じたため、2011年度から2度目の整備事業が実施されることになりました。工事に着手する前には、設計根拠を得る目的で、木津川市教育委員会によって発掘調査が実施されました。

 その結果、本堂前面では、前回では明らかにならなかった洲浜を検出し、園路の一部が創建後間もない鎌倉時代に改修されていたこと、園池北西部は江戸時代に大きな盛り土がなされ、池の形状が大きく変化したことなど新たな発見がありました。

本堂前(西岸)で発見された州浜の遺構(2013年9月)=木津川市教育委員会提供
中ノ島の発掘作業(2014年1月)=木津川市教育委員会提供

 その中で注目される成果の一つが、本堂の建つ園池西岸の地盤が12世紀半ばに造成されていたことが、出土した土器類によって判明したことです。

浄瑠璃寺

 これまで寺史を伝える『浄瑠璃寺流記(るき)』(重文)には、嘉承2(1107)年に新たな御堂が完成し、さらに保元2(1157)年、新御堂を西岸へ移築した、と記されていました。そのため現在の本堂は、嘉承年間の御堂か、保元年間に移築された新御堂なのか、判然としませんでした。しかし今回、保元年間頃に、現本堂が建立され、園池が造られていたことが判明したのです。

 このような成果を得て、今回新たに本堂前面に洲浜の整備を行い、園池の護岸は半世紀後まで現状が保たれるよう、地盤構造を堅固にする工事が行われました。今年度に整備が完了する予定です。 (京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 吹田直子)