龍光院(りょうこういん)は、京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派本山大徳寺の塔頭の一つで、本山の西南部に位置します。慶長11(1606)年に福岡藩初代藩主黒田長政が、父孝高(よしたか)(如水(じょすい)、官兵衛)の菩提のために、春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖とし、江月宗玩(こうげつそうがん)を迎えて創建しました。大坂堺の豪商であり、また、茶人でもあった天王寺屋津田宗及(そうぎゅう)の子息である江月和尚は、有栖川宮家祖高松宮好仁(よしひと)親王が帰依されるなど優れた禅風と高い教養で知られ、そのもとには、松花堂昭乗(しょうじょう)や小堀遠州ら当代一流の文化人が集まりました。

書院(左側)と寮(右側)の屋根。変化に富んだこけら葺が連なる(写真はいずれも府教育委員会提供)
桟瓦葺だった修理前の書院
こけら葺の屋根が復原された書院

 創建当初の敷地は広大なものでしたが、近代になると客殿や大庫裏が除却され、また、一部の敷地も上地(あげち)となり、規模を縮小しました。それでも、開祖および開山を祀(まつ)る昭堂(しょうどう)、黒田孝高夫妻を祀る霊屋(たまや)、客殿の北側に建つ書院や寮および小庫裏等が現在まで維持されており、国宝および重要文化財に指定されています。

 国宝書院の中心をなすのは、密庵席(みったんせき)と呼ばれる四畳半台目(だいめ)の茶室です。その名は床に密庵咸傑(みったんかんけつ)禅師の墨蹟を掛けることに由来すると言い、千利休の待庵(たいあん)、織田有楽斎の如庵とともに、国宝の三茶室の一つに数えられます。

 密庵席の建立時期については明らかではありませんが、袋棚小襖の絵を描いた松花堂昭乗が寛永16(1639)年に没していることから、少なくともそれ以前の建立とみられます。「松屋会記」という茶会記の記述から、建立当初は独立して建っていたと考えられ、その後、慶安2(1649)年の昭堂造営に始まる院内建物の再整備に合わせ、密庵席を組み入れて書院を新築した摸様です。

 2012年度に行った書院の屋根葺(ふ)き替え修理では、それまでの桟瓦葺き屋根をこけら葺き屋根に復原しました。

 国が指定する文化財建造物は、その姿形や構造がむやみに変わることが無いように変更が制限されており、変更する際には、国の文化審議会の厳密な審議を経て許可されます。

 今回の修理では、書院を建立した慶安2(1649)年頃時点では、桟瓦は未(いま)だ発明されていないこと、天明8(1788)年および天保14(1843)年に奉行所に届け出た文書に、書院の屋根を「杮葺(こけらぶき)」と記述していること、昭和41年に行った修理の際に、屋根瓦の下に江戸時代に遡(さかのぼ)ると考えられるこけら葺き屋根が一部残されていたことなどから、少なくとも江戸時代後期頃の書院の屋根はこけら葺きであったことが明らかとなりましたので、許可を得て復原しました。なお、こけら葺きを桟瓦葺きに変更した時期については解明できませんでしたが、近代になり維持管理の都合で葺き改めたものと推測されます。

 書院の修理が完了すると、続けて寮の屋根葺き替え修理を行い、こちらもそれまでの桟瓦葺きをこけら葺きに復原しました。この際に行った調査により、寮および小庫裏が、現状の位置にあった前身建物を一部利用しながら、院内建物の整備が行われた慶安2(1649)年頃に書院とあわせて建立されたことが判明しました。調査の結果等を受け、2016年には寮および小庫裏ほか2棟が重要文化財に指定されました。

 一連の修理完了後には、檜皮葺(ひわだぶ)きの昭堂から、こけら葺きの書院および寮に至るまで、全ての屋根が陽の光を受けてやさしく輝く、他には無い景色が現出しました。見渡しているその場所は、江戸時代には院の中心となる客殿があった位置―現在は菜園となり、日々の糧となる葱(ねぎ)や大根が育ちます。

龍光院書院

 龍光院は、多くの人を迎え入れるには華奢(きゃしゃ)なこともあり、一般の拝観は実施されておらず、残念ながらその景色を見ていただくことはできません。しかし、龍光院が醸す雰囲気の一端に触れていただくことは可能です。現在MIHO MUSEUMでは春季特別展「大徳寺龍光院 国宝曜変天目と破草鞋(はそうあい)」が開催されています。曜変天目茶碗をはじめとした天王寺屋伝来の名宝や、歴代の住持が守り伝えてきた什物(じゅうもつ)を展覧するとともに、脈々と受け継がれ今に至る龍光院の現在も紹介しています。会期も残すところ1カ月ですが、是非この機会に体感されてみては如何でしょうか。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 竹下弘展)