平安時代後期に編さんされた「後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)」童歌に、平等院は、「極楽いぶかしくは、宇治の御寺をうやまうべし、という故なり」とうたわれています。極楽とは、「浄土三部経」に説かれる阿弥陀如来の浄土のことで、西方十万億の国土越えたかなたに存在する理想郷とされています。

 平等院が建立された永承7(1052)年は、末法の世の始まりとされていました。その世相の中で藤原摂関家の氏長者であり関白の地位にあった藤原頼通が、来世での救済、極楽浄土への往生を願い、平等院を開創しました。

庭園の修復を終えた平等院鳳凰堂=平等院提供

 頼通の父道長も、平安京に接して壮麗な寺院、法成(ほうじょう)寺(現府立鴨沂高校付近が跡地)を建立し、同寺の阿弥陀堂で臨終を迎えています。平等院の信仰の中心、国宝鳳凰堂は、頼通が父の没年と同じ62歳を迎えた開創翌年の天喜元(1053)年に落慶しました。その後極楽往生を願い建てられた寺院は平等院を模しており、院政期には鳥羽離宮に勝光明院、奥州平泉に無量光院などが建立されています。

 鳳凰堂は、阿字池と呼ばれる池中の中島の上に建っています。中島は建物がかろうじて建つ程度の面積しかないため、優美な鳳凰堂の造形は、池の水面からそびえ建つように見えます。この光景は「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」に説かれ、数々絵画化された阿弥陀浄土図の浄土世界に近く、頼通の建立意図をよく伝えています。

整備前の庭園(護岸が石積みとなっている)=平等院提供

 現在、中島の周囲には青く扁平(へんぺい)なこぶし大の円礫(れき)が敷き詰められています。これらは古代以来の日本の庭園に特有の意匠で洲浜と称されます。平安京の寝殿造りの園池にも用いられ、頼通の邸宅、高陽(かや)院跡などでも見つかっています。平等院でも創建時より用いられていましたが、すべて地中に埋もれ、江戸時代には石積み護岸になったため、当初とは様式の異なる庭園となっていました。

 この事実は、1990年から始まった庭園修理のための発掘調査で明らかになりました。鳳凰堂の正面に狭い幅のトレンチを設定し、掘削を進めたところ、室町時代の洲浜が見つかり、さらに下層に創建期である平安時代の洲浜が良好に残されていました。この成果を得て1994年から中島のほぼ全面を発掘することになりました。

創建当時の州浜=平等院提供

 約5年間の調査で、創建期の洲浜は中島周囲全面に残っていること、中島北側の池中には小島が存在し、対岸と中島との間に2本の橋が架かっていたこと、阿字池の水深は現在よりも浅く、池水の供給は、主に鳳凰堂背後にあたる南西の崖面からの湧水によっていたこと、湧水は池の南西から尾廊(びろう)の下、北西池みぎわの岬状の礫敷の上面を緩やかに流れ、前池へと注ぐよう設計されていたことなどがわかりました。また半世紀後には翼廊(よくろう)と呼ばれる中堂左右の回廊に凝灰岩製の壇上積基壇が巡っていたことも判明しました。

 これらの成果に基づき修理の方針は、単なるき損箇所の修復ではなく、中島を中心とする範囲で平安時代の様式へ戻すことになりました。整備方法は、発掘で見つかった遺構を盛土で保護し、その上層に創建当初の遺構を再現することになりました。

 工事では、使用素材は極力当初と同質同大で、色彩、形状、質感が同じものを用いる必要がありましたが確保困難なものが多く、中でも洲浜の円礫は境内より採取されたものを中心に利用し、世界遺産である真正性をまもりました。

粘土層の打ち込み作業=平等院提供
洲浜の礫の敷き詰め作業=平等院提供

 施工も現代工法によらず、地盤は人力で突き固め、洲浜も石材と石材の色調バランス、石の向き、重なり具合などが一石一石調整されました。また鳳凰堂の建つ地盤はかさ上げできないため、翼廊に再現する基壇高と遺構保護層の厚みを確保し、かつ洲浜を再現することは難しい課題でしたが、中島各所で保護層の厚みを変化させて実現しました。

平等院

 整備事業は2003年度末に完成しました。その後も平等院では国宝阿弥陀如来坐像ほか美術工芸品、鳳凰堂の屋根瓦のふき替えなどの修理が実施され、現在も堂内彩色や壁画の修理が続けられています。

 極楽浄土の姿を維持・再現する試みが永く繰り返されていることは感慨深く思えます。
(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 吹田直子)