あらわになった屋根の骨組み=府教委文化財保護課提供

 京都市上京区、商工業の一大中心地であった西陣、その家並みの一郭に本隆寺(ほんりゅうじ)があります。

 京都では14世紀以降、商工業に携わる町衆を中心に日蓮聖人を祖とする日蓮宗(法華宗)への信仰が隆盛を極め、現在も伝統を受け継ぐ十六ケ寺の本山があります。本隆寺はこの京都十六本山の一つで、日真(にちしん)上人により長享2(1488)年に開かれた法華宗真門流の総本山です。元は四条大宮付近にありましたが、日蓮宗徒と延暦寺勢力が衝突した天文法華の乱(1536年)により京都を逃れて堺へ転出、その後京都へ戻り、天正12(1584)年、現在地に伽藍(がらん)を構えて今に至ります。

修理前の本堂外観(2017年2月)=府教委文化財保護課提供

 三宝尊(題目宝塔・釈迦如来(しゃかにょらい)・多宝如来)の本尊を祭る本堂は、桁行7間・梁(はり)行7間(およそ20メートル四方)の規模を有し、正面・背面に向拝(こうはい)(庇(ひさし))を設けた堂々たる仏堂です。直径50センチを優に超える太い丸柱が立ち並ぶその姿からは、どっしりとした貫禄を感じます。本堂の棟札には江戸時代前期の明暦3(1657)年に棟上げしたことが記されています。一方、屋根の鬼瓦には万治2(1659)年と刻まれていました。棟上げから屋根瓦が葺き終わり、建物が本当に完成するまでに2年もかかったのも、大きなお堂だったからでしょうか。

土が何層にも塗り重ねられた基礎の一部「亀腹」=府教委文化財保護課提供

 江戸時代、京都の市中は幾度の大火に見舞われ、その度に多くの建物が失われました。本隆寺も享保15(1730)年の「西陣焼け」、天明8(1788)年の「団栗(どんぐり)焼け」の2度の大火で伽藍のほとんどを失いましたが、本堂は隣に建つ祖師堂とともに奇跡的に焼失を逃れました。特に本堂は、洛中における日蓮諸宗本山の中でも最古の本堂であり、建築の歴史を考える上で指標となる貴重な建物で、祖師堂とともに府指定文化財を経て、2014年1月に重要文化財に指定されました。

宮殿(厨子)の裏に発見した墨書=府教委文化財保護課提供

 さて、本隆寺本堂は現在、工事用の覆屋にすっぽりと覆われ、7年にわたる建立以来初の根本修理(半解体修理・府教育委員会が受託施工)の真っただ中です。建立から約360年、本堂はあちこちで破損やゆがみが進み、満身創痍(そうい)の状態でした。修理では屋根の骨組みである小屋組(こ」やぐみ)、床の骨組みである床組(ゆかぐみ)をいったん取り解き、再び組み上げ直します。昨年9月から本格化した解体作業は、ただいま、縦横に木材が組み上げられた小屋組の解体に取りかかっています。

本隆寺

 文化財建造物の修理において、解体工事の作業は、最も注意を要する作業です。何千何万とある部材一つ一つの破損状況を確認し、再び組み直して使えるよう、解体は極力傷つけないよう慎重に行います。また、古建築は建立当時の設計図などがほとんど残っていないので、どのような寸法、工法、材料によって建てられているか調べておく必要があります。加えて、建てられてからこれまでの数百年の間に修理や改造といったさまざまな手が加えられているので、建物が経てきた履歴を明らかにする必要もあります。その履歴は古文書や絵図面によってわかる場合もありますが、建物に残された墨書きの文字、くぎの穴の数やのこぎり、のみなどの工具の痕、材料の新旧や表面の傷み具合、壁土の塗り重ねの様子などの「痕跡」によって具体的に知ることができます。解体工事は、普段見ることができないそれらの痕跡を見つけ、つぶさに調べることができる絶好の機会であるとともに、唯一のチャンスでもあります。痕跡を見逃さないよう細心の注意を払いながら建物の診察カルテと履歴書を作ることは、次にどのような手を施すか検討するための重要な作業なのです。

 修理はしばらく続きます。修理を終えて本隆寺本堂が再び威風堂々とみなさんの前にお目見えするのは、2023年の秋頃の予定です。