京都盆地西側の西山山地の南端に位置する天王山。ここでは、皆さんがご存じの一大事が勃発(ぼっぱつ)しています。1582(天正10)年6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれます。一報を受け、備中で毛利氏と対陣していた羽柴(豊臣)秀吉は「中国大返し」の機敏さで畿内に戻り、光秀は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めます。同月13日、秀吉軍、光秀軍は山崎の地にて激突、軍勢に勝る秀吉軍の一方的な勝利に終わりました。近江へ逃れる道中、小栗栖で襲撃を受けた光秀はその生涯を終えました。その後、秀吉は天下統一へと乗り出すこととなります。この山の占有が勝敗を決したとも言われ、「天王山」は勝敗の分かれ目を意味する言葉となりました。

天王山のふもとに位置する史跡大山崎瓦窯跡(05年1月、京都府大山崎町大山崎)=大山崎町教委提供

 この天王山東麓に、千年の都・平安京の建設に大きな役割を果たした遺跡が存在します。それが大山崎瓦窯(かわらがま)跡です。大山崎瓦窯跡は京都府大山崎町大山崎小字白味才(しろみさい)などに所在します。南東に開けた丘陵斜面に立地し、西側には平安時代創建の寺伝を持つ観音寺(山崎聖天)が隣接します。眼下には木津川、宇治川、桂川の三川合流点を一望し、JR東海道線・新幹線、阪急京都線が通過する交通の要衝となっています。

1、9、10号窯(東から)。窯は整然と配置されていた=13年8月=大山崎町教委提供

 宅地開発が計画されたことを契機に、大山崎町教育委員会が2004年11月に発掘調査を実施し、平安時代に操業された6基の瓦窯跡が検出されました。出土した軒瓦が、都の中枢部である平安宮朝堂院に供給されており、日本古代史を知る上で貴重な遺跡であることが判明しました。地権者や関係者の方々のご理解とご協力のもと、大山崎町教育委員会の努力が実り、06年1月26日、国史跡に指定されました。発掘調査によってその存在が確認されてからわずか1年余りでの史跡指定は、大山崎瓦窯跡の重要性を如実に示しています。その後も、大山崎町教育委員会によって継続的に発掘調査が実施され、これまでに12基の窯跡が確認されています。南へ開口する5基と、東へ開口する7基の2群に分かれ、さらに東へ開口する一群は、南側5基と北側2基に分かれます。窯跡本体は、薪を燃やす燃焼室と、瓦を焼く焼成室に分かれ、燃焼室の前には作業場としての前庭部が設けられています。前庭部には、焼成に伴う灰や失敗した瓦等を捨てた灰原が広がっていました。5基を1単位として造られた窯跡は、焚(たき)口を一直線にそろえて並び、ほぼ6メートル間隔で配置されていました。また、形と大きさもほぼそろえて造られています。このように、各窯跡の構造、配置が精緻に計画されていることが調査により判明しました。

2号窯(南東から)。瓦を焼く焼成室にはうね状の突起があり、炎の通り道となる=2005年1月=大山崎町教委提供

 平安京造営には大量の瓦が必要とされ、大山崎瓦窯跡のほかに瓦を供給した瓦窯は、これまで京都市栗栖野瓦窯跡、西賀茂瓦窯跡、吹田市吉志部(きしべ)瓦窯跡などが知られており、平安宮・京の造営を支えていました。大山崎瓦窯跡もそのために設けられた官営の瓦窯の一つでした。また、西賀茂瓦窯跡や吉志部瓦窯跡から出土した瓦との比較から、瓦に文様を付けるための笵(はん)や工人が移動していたことが推測できるなど、官営の瓦窯相互の関係を考察する上で重要な成果が得られています。

公園として整備が進む史跡。窯跡が復元される予定で、体験型学習の場にもなる(18年3月)=大山崎町教委提供

 窯跡が整然と並んで造られている様子は、西賀茂瓦窯跡や吉志部瓦窯跡でも確認されており、官営工房として、円滑な操業と安定的な生産を可能にするためと考えられます。史跡地は大山崎町により公有化が図られ、活用に向けた整備が実施されています。整備は2011年度から着手されており、遺構を地下に保存した上で、窯跡や前庭部などの復元を行う計画です。子どもたちに瓦の製作から焼成、さらにはその瓦を積み上げ、窯を復元するなど、体験学習の実施も計画されており、府民の方々に親しんでいただける公園整備を目指しています。現在も整備に伴う工事が行われていますが、公園としてオープンした折にはぜひ一度訪れてください。 (京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 奈良康正)