華麗な金箔が施された唐門の全景=写真は京都府教育委員会提供
前身建物の時に扉が取り付いていた痕跡(白くマークした部分)

 慶長3(1598)年に豊臣秀吉が醍醐寺で行った盛大な花見は、たいへん有名です。この前後、秀吉はたびたび醍醐寺を訪れ、境内の金剛輪院(こんごうりんいん)において、寝殿やその他の建物を建てることを指示し、庭園の作事に指導を行っています。秀吉は完成を見ぬまま、その年の8月に亡くなりましたが、豊臣家によって以後の普請は続けられました。金剛輪院は後に三宝院と名を改め、建物や庭園は現代まで伝えられています。

 唐門はこの一連の普請のなかで、秀吉が没した翌年の慶長4年に建てられました。唐門とは、屋根に、独特の起伏を持つ格好の「唐破風(からはふ)」を持つ門を指す呼び名で、ここでは屋根の両側面が唐破風となっており、このような形式を「平唐門(ひらからもん)」と言います。黒い漆塗りを背景に、金色に輝く大ぶりな菊と桐の彫刻が大胆に配された、桃山時代の豪放な気風を感じさせるものです。

 この門は、高貴な人のための特別な入り口として造られたものです。門の役割ゆえに建てる場所が慎重に検討されたことが当時の記録から分かります。最初は南向きに建てられたのですが、その後場所を変えて西向きに、そして現在地へ移して南向きにと、その時々に相応(ふさわ)しい場所や向きに改められています。

 2008年7月、隣接する塀に落雷があった影響で破損し、これを契機に10年にかけて修理を行いました。以下に修理を通じて分かった事柄を紹介します。

修理前の唐門
桐彫刻の裏に描かれた桜の落書き

 建物には、建てられた当初に漆塗りが施されましたが、塗り直しは行われなかったようで、修理前には多くの部分で漆が剥落して、その下地塗りが白く現れた状態でした。漆の塗られた状態を観察すると、扉上部の冠木(かぶき)という大きな材料より下の部材が全て漆塗りで、それより上は素木(しらき)(木地そのままの状態)だったことが分かりました。

 さらに、漆が塗られた部材は、扉とも、かつて他の建物として使われていたものであることが、漆塗りの下から現れた痕跡によって分かりました。取り付いていた大きな菊と桐の彫刻は、新たに誂(あつら)えたものです。この部分にはそれ以前、襷(たすき)といって、その下の部分と同じように×型の飾りが取り付いていました。このような事柄から、前身は「塀重門(へいじゅうもん)」という形式の門であったと推測されます。

桐彫刻にわずかに残る金箔

 塀重門は、屋根のない形の門ですが、門としての格式は高く、屋根がないのは、槍持ちを従えて通るためであるとされています。同じような格式の高い門を持ってきて、唐破風造りの屋根を載せ、扉や両脇の壁に大ぶりな彫刻を取り付けて豪華に飾ったのが、この唐門ということになります。屋根は檜皮葺(ひわだぶ)きですが、建てられた当初はこけら葺き(薄い板を重ねて葺いたもの)であったことが、当時の記録から分かります。

 菊と桐の彫刻、襷材などには、わずかながら黒漆の上に金箔(きんぱく)を貼った痕跡が残っていました。これらの材全てに金の痕跡があることが確認できたので、確信を持って華麗な金箔貼りを再現することができました。

 修理では、屋根や軒部分を解体しました。これらの部分に、以前に解体を受けた形跡がなかったことから、2度の移動は、「曳家(ひきや)」によって建ったまま行われたことが示されます。それから、各部材には、組み立ての際にそれが取り付く場所を示す「番付け」が記されており、正面を西に向けて建てるように準備が進められていたことが分かりました。「南向きに定めた」とした記録とは異なっており、建てる場所や向きに思い悩んでいた様子が、建物からも伝わってきます。番付け以外にも、桜の花や、花見の様子と想像される落書きも現れ、醍醐寺が当時、花見の名所として認識されていた様子がうかがわれます。

醍醐寺三宝院

 今回の修理で唐門は、聞く人が現れるのを待っていたかのように、その身の上を饒舌(じょうぜつ)に語ってくれました。場所にかけるような言い方は気恥ずかしいのですが、建物の声が聞こえること、それが修理に携わることの「醍醐味」だと思います。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 浅井健一)