毎月21日は、「弘法さん」でにぎわう東寺ですが、普段から国宝五重塔はライトアップされ、京都を代表する景観です。東寺は、西寺とともに平安京建都(794年)に伴い王城鎮護、国家鎮護の官寺(国営の寺院)として、都のメインストリート朱雀大路を挟み、建立されました。都の玄関、羅城門をくぐった人々は二つの大寺院に圧倒されたことでしょう。

 東寺は約1200年の年月を経ても、その伽藍(がらん)を今に伝えていますが、西寺は堂塔を失い建造物を地上に残していません。都を代表する2寺はそれぞれ異なる道をたどりました。

 東寺は、823(弘仁14)年、嵯峨天皇から弘法大師空海に託されました。平安時代後期に東寺は一時衰退しますが、弘法大師信仰の隆盛により、広く人々の信仰を集め、鎌倉時代に復興を遂げました。なお、創建時の寺域は現在より南北に広く、南北四町(約500メートル)、東西二町(約250メートル)の規模をもっていました。現在、南大門をくぐると、正面に金堂、右手に五重塔、左手に八幡宮と灌頂(かんじょう)院を望み、金堂の背後には講堂、食堂があり、五重塔の北には宝蔵が、灌頂院の北には、小子房、大師堂などの建物が並びます。これらの主要伽藍は、火災などによる焼失と再建を繰り返してきましたが、位置と規模はほとんど変わっていません。東寺の周囲は堀に囲まれ、戦国時代には織田信長が上洛し、陣を構えたこともありました。

平安京建都に伴い建立された東寺。焼失と再建を繰り返しつつ、1200年前の伽藍を今に伝えている(京都市南区)=東寺提供

 現在、傷みの著しい土塀の修理が行われ、併せて発掘調査も実施されています。調査の結果、東面土塀は、主要建物の整備からやや遅れた9世紀前半に作られ、平安時代中期から後期、鎌倉時代、室町時代に修復されましたが、慶長伏見大地震により倒壊し、最終的に安土桃山時代、豊臣秀頼の寄進で修復されたことが明らかとなりました。土塀は版築と呼ばれる古代の工法を用いて造られており、今回の修理に際しても一部版築による修復が行われています。現在の国宝大師堂など建造物の修理も継続的に行われており、国や府の支援を得ながら文化財を後世に伝える努力がなされています。なお、東寺の指定名称は「史跡教王護国寺境内」(1934年指定)です。

修理後の土塀(15年2月撮影)
修理前の土塀の断面。版築という古代の工法で造られている
修理前の東寺の土塀(2010年4月撮影)

 一方の西寺は、鎌倉時代には主要な堂塔を失いました。西寺のある右京は水はけが悪く、早くに衰退し人々が左京に移り住んだこと、東寺と異なり、官寺のままであったため、律令(りつりょう)国家の衰退に伴って国の支援が受けられなかったことも再建されなかった理由の一つと考えられます。

 現在、建物を失った西寺には、唐橋西寺公園や唐橋小学校などがあり、民家も立ち並んでいます。なお、公園内の丘は講堂基壇に該当すると考えられ、巨大な礎石も残されています。1959(昭和34)年から行われた発掘調査によって金堂、僧坊、回廊などが検出され、その内容が明らかになりつつあります。創建時の寺域は東寺と同規模であり、伽藍配置は東寺と左右対称と考えられています。中心に金堂、講堂があり、その東に東寺灌頂院に相当する御霊堂、西に五重塔があったと推定されています。ちなみに、故杉山信三氏が発掘調査を担当された際、西寺と東寺の伽藍中心部を夜中にスチールテープで計測し、平安京の造営尺を割り出されたという有名なエピソードがあります。西寺跡は東寺より早く、広範囲が1921(大正10)年に国指定史跡となりました。例年5月に行われる松尾大社の祭事松尾祭還幸祭では、6基の神輿(みこし)と唐櫃が唐橋西寺公園に集合します。

西寺跡に残る巨大な礎石(京都市南区・唐橋西寺公園)=市文化財保護課提供

 町中の発掘調査にはさまざまな制約があり困難を伴いますが、2017年からは、京都市文化財保護課で史跡の追加指定を視野に推定西寺五重塔周辺の発掘調査を実施しており、平安時代の瓦が出土しています。地道な努力により、新たな発見があることが期待されています。

 長い年月を経て、異なる道をたどった東寺と西寺を訪れ、平安京以来の歴史を考えるのも一興ではないでしょうか。
(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 石崎善久)