京都の裏鬼門(うらきもん)である男山に鎮座し、平安時代以来の歴史を重ねる石清水八幡宮。『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話でご存じの方も多いでしょう。鎮護国家の神社として伊勢神宮に次ぐ天下第二の宗廟(そうびょう)とされ、天皇や貴族から篤(あつ)く崇敬されてきました。また、八幡神は源氏の氏神とされ、歴代の将軍や武家からも広く信仰されてきました。

 鮮やかな朱色が印象的な御本殿は徳川家光の寛永の修造によるもので、織田信長が寄進した「黄金の雨樋(あまどい)」があることで有名です。この御本殿を含む建造物10棟は、2016年に国宝に指定されました。また、摂社や総門など8棟の建造物や、石清水八幡宮文書などの美術工芸品が重要文化財に指定されており、まさに文化財の宝庫といえます。

国宝に指定されている石清水八幡宮本殿(2012年6月撮影・同八幡宮提供)

 江戸時代の石清水八幡宮は、現在とは景観が大きく異なっていました。明治時代以前の日本では、神仏習合により、神社と寺院が一体であることは一般的でした。石清水八幡宮でも、護国寺や大塔、「男山四十八坊」といわれた僧坊などが境内に立ち並び、仏教的要素が濃い「宮寺」でした。これらの施設は明治時代の神仏分離によって大半が撤去され、わずかに、寛永の三筆の一人松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)ゆかりの松花堂や、かつては阿弥陀堂であった八角堂が男山の南東麓に移築され現存しています。

明治時代の神仏分離で移築された八角堂(13年4月撮影・八幡市教育委員会提供)

 江戸時代以前の境内の姿を把握するために、八幡市教育委員会により2007年度から4カ年かけて実施された分布調査では、境内全体に僧坊の建物跡や石垣などが良好に残っていることが判明しました。また、護国寺の本堂跡で行われた発掘調査では、須弥壇(しゅみだん)を囲むように法具を埋納した遺構が6基検出されました。法具は密教で使用する「輪宝(りんぼう)」に「独鈷杵(とっこしょ)」を突き立てた状態のものが6組出土し、1816(文化13)年の本堂再建の際に行った地鎮の跡であると考えられます。出土品は、江戸時代の密教の儀式の在り方を伝えており、資料的な価値が高いことから、本年度京都府指定文化財となりました。

石清水八幡宮境内図

 これらの調査成果により、石清水八幡宮境内は神仏習合の宮寺としての遺構がよく残っていることが評価され、2014年に国史跡に指定されました。史跡の範囲は24万5630平方メートルにおよび非常に広大です。

 これだけ広大な範囲を保存管理するのは大変なことです。近年では相次ぐ台風被害により、境内で土砂崩れや倒木の被害がありました。昨年には台風21号の影響で、御本殿を取り囲む築地塀の一部が倒壊し、現在修復工事が行われています。

 この塀は、織田信長ゆかりの築地塀として「信長塀」と呼ばれており、石清水八幡宮と愛知県熱田神宮にのみ現存する珍しいものです。築地塀の表面は、瓦と土を交互に積み重ねてあり、耐火性や防御性に優れているとされます。

護国寺本堂跡で出土した府指定文化財の輪宝・独鈷杵(八幡市教育委員会提供)
表面に瓦と土を交互に積み重ね、耐火性と防御性に優れた「信長塀」の断面(17年12月撮影・京都府教育委員会提供)

 今回の修復工事に伴って塀の基礎や断面を調査した結果、塀の内側には締まりがない土が詰められていることが判明しました。通常の土塀では、固く締まった土を内側に何層も積み重ねて丈夫な塀を構築します。しかしこの塀の場合、外側の瓦と土を交互に積み重ねた層を丈夫に造ることで塀の構造を支えており、特殊な構築方法です。内部の土からは、土器片や金箔(きんぱく)瓦が出土しました。土器が17世紀中頃のものであることから、修復中の箇所については、寛永の修造に伴って造築されたと考えられます。

 このように石清水八幡宮境内には、価値が高い文化財が多くあり、見どころにあふれています。皆さんも石清水八幡宮を訪れて、ぜひ豊かな文化財に触れてみてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 岡田健吾)