文化庁の京都移転が本年度から本格的に動き出しましたが、わたしたちの身近にはどんな文化財があり、保存に向けてどんな努力が払われているのでしょうか。府教委文化財保護課で発掘や建造物修理に携わる技師のみなさんが、京都の文化財の魅力を分かりやすく解説します。

朝集院区画塀南東角の検出状況(東から)。整然と並ぶ柱列、二段に掘り込まれているのは外側が柱を据える穴で内側が柱の抜取り痕跡(1989年10月撮影)=京都府教育委員会提供

 世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つである平城宮跡に奈良時代の巨大な建造物である大極殿が復元されています。実は、この大極殿は京都府木津川市にある史跡恭仁宮跡にあったものをモデルに復元されています。

 『続日本紀』によると、恭仁宮は、平城京を都とされていた聖武天皇が天平12(740)年に突如として遷都されたものです。そして、天平16(744)年に再び聖武天皇により大阪府難波宮に都が遷されるまでの約5年間、恭仁宮は日本の首都として存在し、その後山城国分寺に造り替えられたと記されています。

 現在、恭仁宮跡には、山城国分寺の金堂基壇があるほかは、地上に見られる遺構はほとんどありません。基壇の東にも大きな礎石(柱の根石)がありますが、これは山城国分寺の塔跡の礎石です。そのため、長らく恭仁宮跡の所在については不明とされてきました。この大規模かつ貴重な遺跡の謎を解明し、保護するため、京都府教育委員会は昭和48(1973)年から調査を開始し、翌年に山城国分寺跡基壇が恭仁宮大極殿基壇であることを確定し、恭仁宮の位置を明らかにしました。以後、継続的に府教委と木津川市(旧加茂町)教育委員会は調査を行い、平成28年には調査開始から43年、発掘の回数は96回を数えるに至りました。

43年に及ぶ発掘調査で分かってきた恭仁宮跡(赤い線)。大極殿を囲む大極殿院、朝堂院、朝集院が南北に並ぶ=京都府教育委員会提供

 調査により恭仁宮跡に関するさまざまなことが判明してきました。宮跡の周囲は大垣と呼ばれる築地塀で囲まれ、その範囲は東西約560メートル、南北約750メートルになります。東西南北約1キロメートルの平城宮と比較すると約3分の1の面積です。とはいえ、総面積は約37万5千平方メートルで東京ドームの約8倍、甲子園球場の約10倍の面積であり、恭仁宮がいかに大規模なものであったかが分かります。

 宮跡の中央からやや北にある大極殿基壇は東西約60メートル、南北約30メートルの規模で、現在も大極殿の礎石が残されています。礎石は奈良時代から動かされた痕跡がなく、恭仁宮建造時のまま残されています。大極殿周囲は、築地回廊である大極殿院回廊が巡ります。これは、築地塀の両側に屋根を設け通路としたものです。大極殿・大極殿院回廊とも平城京から移築されたと『続日本紀』に記されており、発掘調査が文献史料を裏付けました。大極殿は山城国分寺金堂となり、平安時代に焼失したと伝わっています。

 大極殿の南には、官人たちがさまざまな儀式を執り行った朝堂院、その南には早朝に出勤してきた官人たちが待機する朝集院があり、恭仁宮跡では掘っ立て柱に板もしくは土壁を用い、板葺(ぶ)きの屋根を葺いた比較的簡素な塀により区画されていたことがわかってきました。また、天皇が元日に重要な国家的な儀式を行う際に使われた旗を立てた痕跡が2回分、朝堂院南門のすぐ北で見つかりました。天平13、14年の2年は、まだ大極殿ができておらず、仮の施設で元日朝賀を行ったと『続日本紀』は伝えており、発掘調査からそれを裏付け、朝賀を行った場所も朝堂院であったことが分かりました。

 このように恭仁宮跡では、発掘調査によりさまざまなことが解明されてきました。一方で、大極殿院の規模、朝堂院や朝集院内部の建物の構造や配置、大極殿院の北に二つある内裏相当施設の性格、市街地に相当する恭仁京域の有無など不明な点も多くあります。これらの謎を解明することは、恭仁宮の歴史のみならずわが国の古代国家のあり方を知る上で重要なことであり、全国から注目を浴びています。

史跡恭仁宮跡周辺地図(木津川市)

なお、恭仁宮跡の出土遺物などは遺跡の西約3キロメートルに所在する府立山城郷土資料館で展示しています。ぜひ一度、恭仁宮跡や山城郷土資料館を訪れてください。(京都府教委文化財保護課記念物担当 石崎善久)