JR京都駅烏丸改札口を出るとすぐ、高さ約131メートルの京都タワーが出迎えます。今日の京都の玄関的な施設ですが、かつての平安京の玄関は、芥川龍之介の小説の題材にもなった羅城門(らじょうもん)でした。羅城門は、2階建ての壮麗な建造物であったと考えられ、九条通と千本通の交差点付近に位置していましたが、現在は、門跡推定地にある公園内の石碑と、門上に安置されていたと伝わる兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)(東寺蔵、国宝)などにその記憶がとどまるのみです。なお昨年には京都駅烏丸口に羅城門の模型が設置されました。羅城門の東と西には、鎮護国家の官寺として、東寺と西寺が配置されました。東寺(教王護国寺)は真言宗総本山として現在も拝観者が絶えませんが、西寺は地上の建造物は失われて遺跡となり、国の史跡として保存され、講堂跡などの一部が公園となっています。このような史跡公園を除くと、今日、京都市街地の中に平安京の風景を見いだすためには、少々予備知識が必要です。

 平安京跡は、延暦13(794)年、桓武天皇によって、長岡京から京都盆地に遷都された律令(りつりょう)国家の都城跡で、中国の都城制にならったものです。東西約4・5キロメートル、南北約5・2キロメートルの規模がありました。おおむね、北は一条通、南は九条通、東は寺町通、西はJR花園駅と阪急西京極駅を結んだ線上の範囲にあたります。天皇の居所や儀礼の場である内裏や、政務が行われた朝堂院などの中枢施設が集中した平安宮が京の北部中央部(北は一条通、南は二条通、東は大宮通、西は御前通の範囲)に配置され、宮の正門である朱雀門から南北中心軸に設けられた朱雀大路(現在の千本通)が京域を東西に二分し、西部は右京、東部は左京として条坊制によって碁盤の目のように計画的に造営されました。

朱雀大路上空から見た平安宮(梶川敏夫氏作画)

 現在、当時のほぼすべての施設は遺跡となっています。そのため平安京跡では、さまざまな土木工事などに伴って、年間100件以上の発掘調査が行われています。しかし、これらの件数の発掘調査が実施されるためには、故角田文衞氏や故杉山信三氏に代表される、先人による研究の蓄積と、保護・保存のための行政や諸機関の体制整備などが必要でした。京都府は昭和38(1963)年に平安宮跡、羅城門跡を埋蔵文化財として周知し、京都市は昭和45(1970)年に文化財保護課を設置、昭和47(1972)年に羅城門跡を調査、昭和51(1976)年に現在の京都市埋蔵文化財研究所を設立して対応しました。発掘された平安宮の内裏跡、朝堂院跡、豊楽院跡などの重要遺構の一部は国指定史跡となって保存され、史跡公園として整備されています。現在「大極殿遺址」の石碑が建つ千本丸太町交差点北西の内野公園は大極殿北回廊にあたります。

平安宮豊楽殿跡(京都市上京区、1987年11月撮影)=京都市埋蔵文化財研究所提供

 平安京での発掘調査は、多くが小面積ですが、時には一町規模(1辺約120メートル)に近い邸宅跡の主要部分が発掘されることがあり、大きな話題になります。近年の例として、2011年度に行われたJR二条駅西側では、約3700平方メートルの発掘調査が行われ、9世紀後半を中心とした建物跡群および南北約24メートル、東西約18メートルの池跡が発見されました。この邸宅跡は、出土した墨書土器の文字などから右大臣であった藤原良相(よしみ)の邸宅、西三条第(百花亭)跡であることが明らかになりました。池跡からは豊富な遺物が出土し、仮名文字の書かれた土器(京都市指定文化財)が注目を集めました。百花亭跡の遺構は一部が今も地中に保全されています。今日このような、大小さまざまな発掘調査の成果が積み上げられ、平安京の全体像が少しずつわかってきています。なお、千年以上の都として平安時代以降各時代の貴重な遺跡も検出されていますが、今回は古代都城に関するものに限定しました。

重要文化財の平安宮豊楽殿跡出土品=京都市埋蔵文化財研究所提供

 市内各所には、このような発掘成果を記した説明板や石碑が多く設置されており、関係機関のホームページなどでも紹介されています。また、平安京跡での発掘調査成果や出土資料は、京都府京都文化博物館、京都市考古資料館、京都アスニー平安京創生館(京都市生涯学習総合センター)、ふるさとミュージアム山城(京都府立山城郷土資料館)などで、見学できます。皆さん、ぜひ平安京探訪にお出かけください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 吹田直子)