「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ(後略)」と吉田兼好が著した「徒然草」にもあることから、仁和寺は中学生もその名を知っている名刹(めいさつ)で、世界文化遺産「古都京都の文化財」を構成する17社寺城のひとつです。

 京都市右京区御室大内に伽藍(がらん)を構える仁和寺は、仁和2(886)年に光孝天皇の発願によって造営が始まり、同4(888)年に皇位を引き継いだ宇多天皇が開創されました。宇多天皇が譲位後自ら入寺されて初代住職となり、幕末までは皇子皇孫が住職に就き、近現代は派内の高僧が法脈を継いでいます。近代以降この地は御室、住職は門跡と称されて、今に至っています。

 当初の伽藍は応仁・文明の乱(1467~77年)で全山焼失し、その後160年を超えて再興がなされませんでした。江戸時代の寛永年間に将軍徳川家光の援助を得ることがかない、寛永18(1641)年に伽藍の再興に着手し、正保4(1647)年2月に落慶法要が営まれました。現在の伽藍の骨格はこのときに定められたもので、現在、京都府教育委員会が受託して保存修理工事を実施している観音堂(重要文化財)もこのときに再建されました。

 高温多湿な気候のなかで木造建造物を長期にわたり健全な状態に保つには、修理が不可欠です。傷んだ箇所を直したり、寿命の短い檜皮葺(ぶ)きや茅葺きといった植物性屋根の葺き替えなど、適切な維持修理を繰り返していくことが木造建造物を保持するための基本です。この修理のサイクルの中で、数百年に1度程度、建造物の骨組に至るまでの修理が必要になります。

観音堂の工事状況。軒回りの組み立てを実施中。現在、大工7人が木工事に従事して作業を進めている。このあと、残りの母屋、野垂木、野地板を取り付け、瓦葺きを施工していく(京都府教委提供)

 再建後370年経過した観音堂は、屋根の雨漏りや柱足下礎石の不同沈下などの不具合があり、根本修理が必要と判断され、現在、半解体修理を実施しています。柱や梁(はり)などの骨格は取りはずさず、瓦葺き屋根や小屋組、深い軒を構成する垂木や組物、建具や縁回りの部材などはいったん取り外し、それぞれの材料ごとに修理して元の健全な姿に再現すべく、工事を進めています。この作業の過半を占めるのが木工事で、その担い手が大工です。

 大工の中でも中心的立場にある人は棟梁(とうりょう)と呼ばれ、かつてはその指示によりすべての工事が進められていましたが、今日では調査や設計監理を行う修理技術者と各職種の職長が協力して修理工事を進めています。今でも各職工が大工棟梁から修理にかかる助言を得ながら作業を進めていることが多く、的確な判断力と知識や経験が求められます。

 府教育委員会では、明治30(1897)年の古社寺保存法が制定され文化財建造物の近代的保存修理が開始されてからの120年の間、府内の文化財建造物の保存修理を行ってきました。また、昭和49年3月以降は大工を直接雇用して木工事を実施しています(大規模建造物や部分施工の場合は、請負工事とすることもあります)。これは、伝統技術を持つ大工を継続的に修理工事に従事させるために行われています。現在11人の大工と2人の建具大工がこの任にあたり、19人の修理技術者とともに文化財建造物の保存修理を行っています。

双ケ岡から見る仁和寺の中心伽藍(南から)。伽藍は南面し、右手から二王門、中門、金堂が一直線上に並び東に五重塔、西に観音堂(工事用素屋根仮設中)と御影堂が建つ=2013年7月撮影(京都府教委提供)

 また、修理は建造物の保存が主たる目的ですが、伝統技術の継承も行っています。時間短縮や経費削減のため電動工具などの現代の工具も使用しますが、見える箇所や構造上重要な箇所はノミやカンナなどの伝統的工具を用いて仕上げます。伝統工具が電動工具に取って代わり、大工より内装工が重用されるのが現代の建築現場ですが、さしがね1本で木材に墨を付け、ノミやカンナといった伝統工具を用いて組み建てるという世界に誇るべき木造建築技術をはじめとする伝統技術を、未来に伝承することも文化財修理の大切な役割です。

仁和寺境内図

 今回実施している仁和寺の修理では、観音堂に加えて、御影堂(重要文化財)の屋根葺き替え修理(竣工(しゅんこう)済み)、金堂(国宝)の蔀(しとみ)戸漆塗りを主とした塗装修理・部分修理を並行して実施しています。来年には、修理の完了した姿をご覧いただけるように、修理を進めていますので、竣工の折に一度仁和寺を訪れてください。(京都府教委文化財保護課建造物担当 吉田理)