古墳というと、多くの方は鍵穴の形をしたお墓、いわゆる前方後円墳を思い浮かべるのではないでしょうか。そして、そういった古墳は、箸墓古墳がある奈良県や、大山(仁徳陵)古墳がある大阪府に多い、といったイメージをお持ちではないでしょうか。しかし、実は京都府には1万3千基以上の古墳があり、全国でも3番目の数を誇ります。その中でも古墳が最も多く分布するのが丹後地域です。今から1600年ほど前、古墳時代前期と呼ばれる時代は丹後地域に全国でも屈指の規模の古墳が多く造られた時代でした。特に大きな蛭子山古墳(145メートル)、網野銚子山古墳(198メートル)、神明山古墳(190メートル)は「日本海三大古墳」と呼ばれています。なぜ、当時の政治の中心地であったヤマト(奈良県)から遠く離れた丹後地域にこのような巨大な古墳が造られたのでしょうか。その中でも最大の規模を誇る網野銚子山古墳について、見ていくことにしましょう。

 網野銚子山古墳は、京都丹後鉄道網野駅の北東側、網野市街地を見下ろす小高い丘陵の上にあります。全長およそ198メートル、高さは10メートルにもなる日本海側最大の巨大古墳です。その存在は古くから知られており、江戸時代後半には、すぐ隣の寛平法王陵古墳から石で作られた枕や勾玉などが出土した、という記録が残されています。明治時代になると、研究雑誌に網野銚子山古墳の写真が紹介され、一躍全国的に知られるようになります。京都府では、その後、大正6(1917)年に発足した京都府史蹟勝地調査会の調査委員であった京都帝国大学の梅原末治氏が報告をしています。そして、大正11(1922)年にはすぐ隣にある小銚子古墳、寛平法王陵古墳とともに京丹後市内で函石浜遺跡に次ぐ2カ所目の国史跡として指定されました。その後、昭和60(1985)年度から網野町教育委員会、2007年度からは京丹後市教育委員会によって発掘調査が行われており、古墳の全体像が少しずつわかってきています。

上空から撮影した網野銚子山古墳。古墳時代には海岸線が市街地まで入り込み、天然の良港を形成していた=京丹後市教委提供

 発掘調査によって、現在木が茂っている墳丘は、かつては葺石で覆われ、2千本にも及ぶ埴輪が並べられていたことが明らかになりました。この埴輪は「丹後型円筒埴輪」と呼ばれ、丹後地域を中心に存在する特徴的で独特な形を持つものです。その一方で、古墳の設計図は奈良県にある全長207メートルの大王墓、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵)と同じであるという研究もあり、ヤマト政権とも強いつながりを持った地域の実力者がいたことがうかがえます。現在、網野銚子山古墳の上に立つと1キロメートルほど向こうに日本海を望むことができますが、古墳時代には海岸線が現在の網野市街地まで入り込み、潟湖と呼ばれる天然の良港を形成していたと考えられています。当時の人々は、網野銚子山古墳の巨大な姿に驚いたことでしょう。網野銚子山古墳は日本海に面したまさに「海の古墳」でした。想像をたくましくするならば、網野銚子山古墳には、丹後地域を拠点として日本海を通じて活躍した人物が眠っているのかもしれません。

後円部で見つかった葺石や埴輪(1985年9月撮影)=京丹後市教委提供

 2015年度からは、京丹後市教育委員会が整備に向けた発掘調査を実施しており、造られた当時の古墳の姿を明らかにし、今後どのように整備するのか、専門家の意見を聞きながら検討されています。

網野銚子山古墳

 現在、京都府が「海の京都」として魅力ある観光まちづくりを推進する丹後地域には他にも著名な遺跡や古墳が数多く残されており、現地に行くと当時の歴史を肌で感じることができます。今夏、府教育委員会では、文化財1dayバスツアーを開催して丹後地域の遺跡見学も行います(詳しくは府文化財保護課HP)。また、丹後地域での発掘調査成果や出土資料はふるさとミュージアム丹後(府立丹後郷土資料館)などで見ることができます。みなさん、ぜひ丹後地域の歴史探訪にお出かけください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 桐井理揮)