戦争孤児として過ごした3年間の路上生活を振り返る男性。今年4月に亡くなった妻にさえ体験を語ってこなかったという(京都市の自宅)

戦争孤児として過ごした3年間の路上生活を振り返る男性。今年4月に亡くなった妻にさえ体験を語ってこなかったという(京都市の自宅)

京都府立盲学校で同級生として知り合い、卒業後に結婚した男性と妻。伏見寮時代の恩師の黒羽先生(後列左)も祝福に駆けつけた=男性提供

京都府立盲学校で同級生として知り合い、卒業後に結婚した男性と妻。伏見寮時代の恩師の黒羽先生(後列左)も祝福に駆けつけた=男性提供

 私は空襲で母を亡くし、戦後に父も病死して戦災孤児になりました。2年余り、時には仲間と泥棒もしながら駅などに寝泊まりする放浪生活の中で、両目の視力も失いました-。

 京都市在住の男性(88)は、この過去を長い間、7歳上の妻にさえ語ってきませんでしたが、今年9月に京都新聞社の取材に、戦災孤児だったころの悲惨な記憶を話してくれました。

 生まれは福井県敦賀市。おやじは外国船船員で家にほとんどおらず、給料を家に入れなかった。おふくろがニシンの加工工場で働いて育ててくれました。

 1945年7月12日夜、おばの家で風呂に入り、自宅への帰り道で敦賀空襲に遭いました。米軍機はまず照明弾を落とし、町中が明るくなると焼夷(しょうい)弾をだーっと落とす。焼夷弾は夕立のような音がする。怖いですよ。必死で逃げました。

 翌朝、おふくろは自宅近くの映画館の用水桶(おけ)で死んでいました。顔は黒く焼けて識別できなかったが、かぶっていた布団に鶴の絵柄があったのでお母ちゃんと分かりました。

 ショックで悲しくて涙も出なかった。ぼーっとしているところへ、トラックが来ました。死体の山をつんでいて、暑いのでハエがたかっていた。兵隊さんがその死体の中へおふくろを放り上げました。「土葬にするからついてきなさい」と言われ、行った先で100人以上の死体とともに大きな穴に放り投げられました。

 おやじは敗戦翌年の46年1月にチフスで急死し、私は13歳で孤児になった。預けられたのは、おやじの姉の家。この時期が人生で一番悲しかった。「おまえはなんで生まれてきたんや。なんでわしらが引き取らなあかん」と、朝に夕に聞かされた悲しさは絶対に忘れません。

 8月下旬、おばの家をあてもなく飛び出して福井へ。そこで出会ったのが2年余り大阪や神戸、東京を放浪することになる仲間の山ちゃんとカメちゃん。山ちゃんは泥棒の名人で焼け残った家に入り込み、その金で、闇市でカレーライスやぜんざいを食べた。

 泥棒が良いとは思わないが、そうしないと生きていけなかった。米軍将校の彼女になった人からかわいがってもらい、大きなチョコレートや肉の缶詰をもらいました。そんな生活の中で左目が見えなくなり、右目も光しか感じられなくなった。

 大阪駅で一緒だった8歳ぐらいの女の子が餓死したことがあります。ほぼ全裸でがりがりに痩せ、両足は傷口から菌が入って真っ赤に膨らんでいた。まんじゅうをあげて体を寄せ合って寝たけど、ひもじさと寒さに耐えかねて亡くなった。うまいものも食べず、もちろん青春も知らずに。戦争をしたのは大人。子どもたちに何の責任があるんですか。

 48年10月、京都駅での「ルンペン狩り」で七条署に捕まり、京都市伏見区にあった(要保護児童一時収容所の)伏見寮へ。12月に園長として赴任してきた黒羽(くろばね)順教先生と出会い、自暴自棄だった僕の運命は変わります。「ちょっと風呂へ行こうか」と誘われた銭湯で、皮膚病の疥癬(かいせん)の背中を洗ってくれた。人のぬくもりに触れ、改心しました。黒羽先生の言う通りに京都府立盲学校に入学し、卒業後はマッサージ師として生計を立ててきました。

 過去のことは長い間話さなかったのですが、戦争を知らない国民が8割を占める中、2015年から学校などで講演するようになりました。

 今でも夏がくると地獄の日々を思い出し、悲しみと怒りとともにうつ状態になる。私たち孤児がどんなに母のぬくもりを慕って泣いたことか。歯を食いしばったことか。二度と子どもたちに悲しい思いをさせてはいけない。それは大人の責任です。