巨大な前方後円墳の登場とともに幕を開ける古墳時代。奈良県にある箸墓古墳は、ヤマト政権の誕生を物語る存在として大変に有名です。ところが、古墳が現れてくる直前にあたる、弥生時代の終わり頃の様子は、実はよくわかっていないのです。

 このような巨大な古墳を造営した有力者は、どのように現れてきたのでしょうか。その謎を明らかにする鍵を握るのが、丹後地域です。

大風呂南墳墓1号墓主体部(与謝野町教育委員会提供)=1998年6月撮影

 丹後半島の付け根、日本三景・天橋立をのぞむ丘陵上で、1998年に大風呂南墳墓の調査が行われました。1号墓の墓穴では、被葬者の頭の周辺から、ガラス勾玉(まがたま)や緑色凝灰岩製管玉(くだたま)で作られた首飾りが、被葬者の頭の上方には銅製の腕輪や南海産の貝輪、体の両側では鉄剣や鉄鏃(てつぞく)、漁撈具(ぎょろうぐ)などが、そして中央部からガラス釧(くしろ)(腕輪)が見つかりました。

 こうした鉄剣や鉄鏃など、丹後地域における鉄器の出土量は、全国でも群を抜いています。同時期のヤマトなどではほとんど出土しないため、この時期の鉄器流通の主導的立場を担っていたのは丹後地域だったのです。

 さらに多量の鉄製品の出土にとどまらず最も目を引いたのは、直径10センチのライトブルーのガラス釧でした。国内で4例目の発見、完形のものとしては初となったこの釧は、その後の研究により、遠く中国南部やベトナムなどで出土するものと形や成分が同じであることがわかりました。松本清張が68年に発表した推理小説(後に『内海の輪』として刊行)では、ガラス釧の完成品の貴重さが鍵となっていますが、それが現実に出土したのです。

赤坂今井墳墓(京丹後市教育委員会提供)=2000年9月撮影

 この発見から2年後、京都丹後鉄道の峰山駅を過ぎた盆地から海浜部へと抜ける狭隘(きょうあい)な場所で、再び大きな発見がありました。南北39メートル、東西36メートル、その高さは4メートルにもなる赤坂今井墳墓の発見です。これほど大きな墳墓は、近畿地方でも同じ時期には例がありません。

 中心に埋葬された人の墓穴の上には、たくさんの礫(れき)が敷設され、その間には、いくつもの割られた土器が破片となって散らばっていました。死者を葬送するための儀式の痕跡と考えられるこの土器片の中には、遠く関東地方の土器も含まれていました。

赤坂今井墳墓から出土したガラス勾玉や碧玉製の管玉(京丹後市教育委員会提供)=2000年9月撮影

 中心の墓穴は、遺跡保存のために上面までしか調査されませんでしたが、隣に葬られた2番目に大きな墓穴からは、死者の頭に装着された状態でガラス勾玉や碧玉(へきぎょく)製の管玉も見つかりました。

 赤坂今井墳墓では、2500立方メートルもの土砂が動かされており、一つの集落の力だけでは造営できなかったと見られています。いくつもの集落を束ねるような有力者が、弥生時代の終わり頃には現れていたことがわかります。

大風呂南墳墓・赤坂今井墳墓

 二つの墳墓の出土品は、東南アジアや南海、関東地方など、弥生時代の終わり頃に幅広い交流があったことを裏付けるもので、その被葬者たちは、遠くから運ばれてきた物資の流通をつかさどった人物だった可能性があります。二つの墳墓が交易にとって重要な位置に造営されていることも、その役割を示唆しています。

 この被葬者たちが「王」と呼ばれるような人物だったのかはわかりませんが、大きなネットワークが形成されつつあった弥生時代の終わり頃に、丹後地域に現れたような流通をつかさどる人々が、古墳を造営する有力者へと成長をとげた可能性が高いのです。丹後地域が、日本古代史において果たした役割は、非常に大きかったと言えるでしょう。

 ガラス釧は、重要文化財に指定され、丹後郷土資料館でレプリカが常設展示されています。また、赤坂今井墳墓は、2007年に国の史跡となっています。JR峰山駅から、石山のバス停で下車、徒歩2分です。是非一度訪れてみてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 藤井整)