生涯をかけた最後の傑作―。没後10年になる井上ひさしさんの遺作を友人大江健三郎さんは絶賛した。シベリア抑留を描いた「一週間」である▼なぜ60万人もの人々が連行され、約5万5千人が命を落としたのか。国際法に背いたソ連、無責任な日本政府、収容所に温存する旧軍隊の秩序…。無慈悲な権力に主人公の抑留兵士が挑む▼どんでん返しの連続だが、軍の参謀らを実名で登場させ、小説の世界にとどめない。一兵士の目線で権威の虚構を笑い飛ばす手法に、作者の怒りがにじむ▼抑留の史実などを伝える、舞鶴引揚記念館(舞鶴市)の資料がユネスコの世界記憶遺産に登録されて5年。飢えと寒さ、重労働の過酷な生を和歌で樹皮につづる「白樺(しらかば)日誌」に心打たれる人は多い。<幽囚の身こそ悲しき遺言もあらずて異郷に逝く人多し>▼この記憶をどう次代につなげるか。同じ体験を持つ生存者は年々減り、平均年齢は97歳という。抑留の実態そのものの解明を急ぎ、現地に残る遺骨の帰還を願う▼思い起こすのは、井上さんの戯曲「父と暮せば」だ。広島の原爆で被爆死した父の亡霊が生き残った娘に託す。<人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが>。シベリアの悲劇を生かさなければならない。