1988(昭和63)年9月11日、綾部市の由良川沿いにある山の麓が千人を超える人波であふれていました。京都府埋蔵文化財調査研究センターが開催する私市(きさいち)円山(まるやま)古墳発掘調査の現地説明会をめざして訪れた方々です。新聞の紙面には「未盗掘の大型円墳発見」の文字が躍っていました。

保存整備後の私市円山古墳(1993年4月撮影)=綾部市教育委員会提供

 私市円山古墳は、古墳時代中期(5世紀中頃)に造られた、直径約70メートルの円墳に長さ10メートル、幅18メートルの造り出しと呼ばれる突出部を付けた「造り出し付円墳」です。古墳の裾から墳頂部までの高さは10メートル、途中に2段の平坦(へいたん)面をもつ3段築成の構造をとっています。円墳としては京都府内最大の規模を誇り、裾部とそれぞれの平坦面、墳頂部には円筒埴輪(はにわ)・朝顔形埴輪が巡り、墳丘斜面には川原石が葺(ふ)かれていたことがわかりました。また、造り出しや墳頂部からは、家形・短甲形などの形象埴輪も検出されています。

私市円山古墳第1主体部から出土した甲胄=府埋蔵文化財調査研究センター提供

 墳頂部からは、3基の施設が見つかりました。そのうち2基は木棺を組み、遺体を納めた埋葬施設でしたが、もう1基は鉄鏃(てつぞく)や鉄製農工具を納めた埋納施設であることがわかりました。中央の埋葬施設には鏡・玉類・刀・鉄鏃のほか、鉄製の短甲、冑(かぶと)、多数の鉄製農工具などが副葬されていました。また、その隣の埋葬施設にも、鏡・剣・玉類、鉄鏃、短甲・冑、そして金で飾られた弓矢を入れる胡簶(ころく)と呼ばれる武具が副葬されていました。甲冑(かっちゅう)をまとい刀剣を帯び、弓矢を携えた武人の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる副葬品といえます。また、この古墳は未盗掘であったため、出土品は古墳時代中期大型円墳の基準資料となりました。

 古墳の発掘調査は近畿舞鶴自動車道路の新設に伴うもので、道路用地に決定した当初は、山城跡と考えられていたので、調査後には削平される予定でした。しかし、新たに見つかった古墳の重要性から京都府教育委員会は当時の日本道路公団と保存協議を続けました。また、市民や学術団体など各方面からも保存を望む声があがりました。こうした動きを受け、日本道路公団と京都府、綾部市の三者は、89年1月に古墳保存に合意し、古墳の下をトンネルとする道路建設へと大幅に設計が変更されました。また、同年3月には市民団体がシンポジウムを開催し、カラー図録を発行するなど普及啓発活動も活発に行われました。

私市円山古墳の現地説明会(88年9月撮影)=府埋蔵文化財調査研究センター提供

 現地保存の決定を受けて、綾部市が整備に向けて取組みを始めました。90年には環境整備基本構想を発表し、市民の積極的な参加を呼びかけました。そして、91年4月に私市円山古墳整備促進協議会が多くの市民の参加のもと発足しました。協議会は整備事業のPR活動、募金活動のほか、葺石拠出運動を行い、市民の手により全葺石の1割に該当する約6500個もの葺石が集められました。工事は同年7月に着手、93年5月に「私市円山古墳公園」として開園しました。国指定史跡となったのは、94年3月のことです。綾部市では週末の夜には古墳をライトアップし、また年1回、11月3日に古墳まつりが麓の広場で開催されるなど多くの人々に親しまれてきました。このように、この古墳はトンネル工事により、全面保存され、古墳公園として整備・活用されている史跡として全国的に有名な存在となりました。

 ところが、2014年8月17日、綾部市を襲った局地的豪雨により墳丘の一部が崩落するという大きな被害を受けました。綾部市は直ちに復旧事業に着手します。同年も古墳まつりが開催され、来園者に被災状況が公開されました。工事は翌年の9月30日に終了し、11月に行われた古墳まつりで修理完了が報告されました。

私市円山古墳

 このように、この古墳では保護、整備、活用まで行政と市民が共同で行ってきたことが特徴的で、これからも綾部市のシンボルとして親しまれていくことでしょう。私市円山古墳へは、JR綾部駅から、あやバス西坂線湯殿駅を下車して徒歩5分です。また、出土品は府指定文化財となり綾部市資料館に展示されています。皆さんぜひ、訪れてみてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 石崎善久)