物集女城跡

 応仁・文明の乱(1467~77年)を皮切りに、日本全土は戦国時代に突入しました。この時代、桂川右岸、乙訓と京都市西京区・伏見区の一部を併せた地域は「西岡(にしのおか)」と呼ばれ、室町幕府に仕えた小領主が居住していました。文献史料からは、物集女(もずめ)、神足(こうたり)、中小路、革島、竹田、野田、小野の各氏の名前をうかがうことができ、西岡衆・西岡被官衆などと呼ばれています。彼らは応仁・文明の乱以前から団結して物事にあたっており、相談を行う場が向日神社(向日市・府暫定登録史跡)でした。応仁・文明の乱では、西岡衆の大部分は東軍にくみし、上洛(じょうらく)する軍勢を京に道案内をしたり、西軍の増援部隊の上洛を阻むなど、東軍の準主力として活躍しました。乱の後には、細川管領家、のちに戦国大名三好長慶にくみしていますが、西岡の地は西岡衆の合議による「惣国」として成り立っていました。

 西岡衆の居城は三十数カ所が遺跡として知られていますが、大部分は廃絶し、田畑や町へと姿を変えていきました。現在その姿を残すのは、石見(いわみ)城跡(京都市)、物集女城跡(向日市)、開田(かいでん)城跡(長岡京市)、勝竜寺(しょうりゅうじ)城跡(長岡京市)にすぎません。

物集女城跡全景。手前と左右に堀があり、竹の茂る部分が土塁(2017年1月撮影、向日市教育委員会提供)

 その中で、良好に当時の姿を残すのが西岡衆のリーダーの一人、物集女氏の物集女城跡です。現在、向日市教育委員会が保護のために調査を進めています。城跡は、物集女街道と府道201号線の交差点の南西側に位置しています。周辺の宅地化が進む中、緑の生い茂った部分が城跡の中心部分です。物集女城跡は、城と言っても二条城や大坂城のように、周囲に大規模な堀や石垣を巡らせ、そびえ立つ天守を建築した城ではありません。城の中心部分は、北・南・東の三方に堀を設け四角い区画を造り、堀の土を内側に盛り上げ土塁とした東西・南北とも約75メートルのいわゆる土の城です。土塁で囲まれた空間内部は、土塀と思われる施設で区画され、城主の居住空間やごみ捨て場、広場などに分けられていることがわかりました。土塁は東西南北の四周を取り囲んでおり、南東には堀に対して張り出した平地が形成され、土塁に口を開けて城の門としています。門は城の北西にも設けられていたようです。発掘調査では、日常生活で使用された食器やくぎなどが出土しています。瓦が出土していないことから、城館内の建物は板葺(ぶ)きであったと考えられます。

物集女城跡曲輪内部の調査状況。左の礫列が区画施設の基礎構造。礫列の右側が居住域で左側が広場空間(2017年1月撮影、向日市教育委員会提供)

 革島氏の革島館跡(京都市)、中小路氏の開田城跡も平面方形を基本とし、土塁と堀をもつことが発掘調査でわかっており、西岡衆が築城技術や築城の考え方を共有していました。その中で物集女城跡は、西岡衆が居住した城館の実態を今も伝える貴重な遺跡です。

 戦国時代末期、1568(永禄11)年、織田信長が将軍足利義昭を擁して入洛した際、西岡衆の多くは三好三人衆の一人、岩成友通とともに信長軍と交戦しましたが敗退します。「西岡」は勝竜寺城に入城した細川藤孝の支配下に置かれ、西岡衆の大部分もその配下に加わりました。一方、最後まで信長に従わず自立を目指した物集女城城主、物集女忠重は1575(天正3)年、藤孝により暗殺され、物集女氏は離散してしまいます。忠重の暗殺は、「西岡」の戦国時代の終わりを告げる事件といえるでしょう。

 このような歴史を物語る「西岡」の城館跡、一つ一つは決して大きな城ではありませんが、戦国時代の京近郊の様子を示しています。なお、勝竜寺城跡は公園として整備され、開田城跡は土塁の一部が保存されています。みなさんも一度、「西岡」の城館を訪れてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 石崎善久)

公園整備された勝竜寺城跡。細川藤孝時代の城跡をイメージして整備されています(2010年8月撮影、京都府教育委員会提供) 公園整備された勝竜寺城跡。細川藤孝時代の城跡をイメージして整備されています(2010年8月撮影、京都府教育委員会提供)