「丹後王国」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 丹後には数多くの古墳が造られました。中でも網野銚子山(ちょうしやま)古墳(198メートル)、神明山(しんめいやま)古墳(190メートル)、そして蛭子山(えびすやま)1号墳(145メートル)は日本海側で1~3位の規模をもつ前方後円墳であり、「日本海三大古墳」と呼ばれ、古代丹後に巨大勢力があったというロマンをかき立てています。

蛭子山1号墳と作山古墳群の空撮写真(中央左手が蛭子山1号墳、手前が作山古墳群)=写真はいずれも与謝野町教育委員会提供

 3基の前方後円墳は約1600年前に相次いで造られました。その中で最も古い古墳が蛭子山1号墳です。また隣接して同時期の作山(つくりやま)古墳群が位置しています。蛭子山古墳群・作山古墳群は与謝野町字明石(あけし)の野田川右岸中流域の段丘上に立地しています。

蛭子山1号墳の舟形石棺
蛭子山1号墳の石棺内の石枕

 蛭子山古墳群は8基の古墳が東西方向に並んでおり、1号墳は全長145メートルの前方後円墳、2号墳は一辺42メートルの方墳、3・8号墳は一辺10メートル程度の方墳で他の古墳はやや不明瞭です。

 作山古墳群は、蛭子山古墳群から谷を挟んで南側に位置し、5基の古墳で構成されています。1・2号墳が円墳、3・5号墳が方墳、4号墳が前方後円墳であり、いずれも30メートル以下の中・小規模の古墳です。

 蛭子山1号墳は昭和2(1927)年に丹後地域を襲った北丹後地震によって丘陵に地割れが生じ、古墳の周りに立てられていた埴輪列が発見され、その存在が明らかになりました。同4(1929)年には墳頂にあった蛭子山神社の社殿再建工事に伴い、舟形石棺が地元の方によって見つけられ、当時は石棺見物に大行列ができたそうです。この発見を契機に京都府史蹟名勝天然記念物調査会の梅原末治氏などにより蛭子山古墳群・作山古墳群が調査されました。

 蛭子山1号墳で発見された舟形石棺は、硬い花崗岩を刳(く)り抜いて作っています。棺(ひつぎ)の内外には邪気を払う赤いベンガラが塗布され、被葬者の頭を置く部分は窪(くぼ)みを彫り込み、枕のように加工しています。棺の中には鏡や鉄刀が副葬されていました。また、古墳の上からは筒形の円筒埴輪(はにわ)や家・甲(よろい)の形をした埴輪が見つかっています。円筒埴輪は上部がすぼまった形をした「丹後型円筒埴輪」と呼ばれるもので、丹後地域でのみ確認できる埴輪です。

蛭子山1号墳の埴輪
蛭子山・作山古墳群の土製模造品
蛭子山・作山古墳群

 作山1号墳では石を組み合わせて作った組合式石棺から銅鏡、石製の腕輪、ガラス製の玉類、鉄製の武器類などが出土しています。また、蛭子山1号墳と同じく「丹後型円筒埴輪」も見つかっています。これらの成果から、昭和5(1930)年に蛭子山1~3号墳、作山1~5号墳が国史跡に指定されました。

 石棺の発見から半世紀以上たった昭和59(1984)年から平成2(1990)年にかけて旧加悦町教育委員会が改めて発掘調査を行いました。蛭子山1号墳からは石棺以外の埋葬施設が検出され、複数の人物が埋葬されていたことが確認されました。また、作山古墳群では1号墳以外の墳形や規模、埴輪以外にも土器が並べられていたこと、1号墳の周囲に埴輪棺や木棺を納めた墓が多数あること、古墳群の中で5号墳が最も古い古墳であることも明らかになりました。

 2つの古墳群は蛭子山1号墳の全長145メートルという規模をはじめ、当時の政治の中心であった奈良や大阪に多く見られる舟形石棺や埴輪が採用されている点から、いわゆるヤマト政権と深い関わりをもって築造されたものであり、ヤマト政権が丹後地域を重要視したことを示しています。一方で、丹後型円筒埴輪を用いる独自性も示しています。

 これらの発掘調査の成果をもとに、蛭子山古墳群、作山古墳群とも平成元(1989)年から同4(1992)年にかけ、展示施設をもつ府内唯一の古墳公園として整備されました(現与謝野町立古墳公園)。蛭子山1号墳の墳頂には舟形石棺が覆屋の中に保存されています。また、作山古墳群は埴輪・土器が立てられた築造当時の姿に復元され、1号墳の石棺も発見当時の姿を見ることができます。併設しているはにわ資料館内には蛭子山古墳群・作山古墳群から出土した副葬品や埴輪、土器、土製品なども展示されています。

 二つの古墳群は発見から現在まで多くの方々の協力と地元の理解によって大切な文化財として保護され、体験学習や憩いの場となっています。ぜひ、現地に足を運び、当時の歴史を肌で感じてみてはいかがでしょうか。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 北山大熙)