京都盆地西部の桂川右岸、現在の京都市の一部、向日市、長岡京市、大山崎町に及ぶ乙訓地域は、ヤマトから日本海に通じる交通の要衝で古代から栄えていました。『日本書紀』の神話では「輿(こし)」から女性が落ちたので「おとくに」と呼んだという地名起源の伝承があります。乙訓では、3世紀後半から7世紀後半の古墳時代におよそ400基の古墳が造られました。そのうち、葺石(ふきいし)・埴輪(はにわ)をもつもの、約30メートルを越える古墳を地域の有力者が埋葬された首長墳と捉えています。その数は32基を数え、現在17基が残っています。全体としても長岡京の造営以来の開発やタケノコ栽培などで全体の約3割にあたる133基の古墳が失われています。残された首長墳を保護するため、京都府教育委員会は、京都市、向日市、長岡京市、大山崎町と協力し、乙訓地域の首長墳に関する調査・検討を行い、2015年に報告書を刊行しました。

恵解山古墳の航空写真(南西から)=2014年11月撮影、長岡京市提供

 乙訓古墳群は、一つの地域で首長の古墳が初期から終末期まで継続して築造された類例のない古墳群であり、古墳時代政治史を読み解く上で貴重として、11基の古墳が2016年に群として国の史跡に指定されました。複数の市町にまたがる古墳群の指定としては府内初の事例となりました。

 では、乙訓古墳群を構成する個々の古墳を古い順に紹介します。最古の古墳は前期初頭の向日丘陵の五塚原(いつかはら)古墳(向日市)です。全長91メートルの前方後円墳で、墳丘全体が葺石で覆われています。墳丘は奈良県箸墓古墳との共通点が多いのが特徴です。次いで、全長94メートルの前方後方墳の元稲荷古墳(同)が造られます。特殊器台形埴輪と呼ばれる古式の埴輪があり、副葬品も大王墓と比べても遜色(そんしょく)ないと考えられています。前期中葉には葺石・埴輪を完備する全長98メートルの寺戸大塚古墳(京都市・向日市)が造られます。後円部と前方部に竪穴式石室があり、前方部竪穴式石室からは三角縁仏獣鏡や鉄製品が多数出土しました。前期後半から末頃に長法寺南原古墳(長岡京市)や境野古墳(大山崎町)など各所に首長墳が出現し、多くの首長が現れたことがわかります。前期末には北部に天皇の杜古墳(京都市)が造られ、乙訓を代表する首長墳が向日丘陵から北部に移動します。この時期は、畿内大王墓が大和から河内に移動する変革が起こっており、乙訓でも連動した動きがあったと思われます。また、同時期の鳥居前古墳(大山崎町)の副葬品は、前期から中期へ移行する様相を示しています。

鳥居前古墳から出土した副葬品の巴形銅器(府立山城郷土資料館蔵)

 中期に乙訓古墳群の様相は一変します。北部、中部、南部にそれぞれ存在した首長墳は姿を消し、恵解山(いげのやま)古墳(長岡京市)が唯一最大の首長墳として出現します。分散した権力が恵解山古墳の被葬者に集中したものとみられます。恵解山古墳築造以降、一時的に前方後円墳は造られず、中期後半の円墳である南条古墳(向日市)が築かれる程度です。

 中期後半には北部で前方後円墳が造られ、再び造墓活動が活発になります。後期には府内最古級の横穴式石室をもつ芝古墳(京都市)や井ノ内車塚古墳(長岡京市)、井ノ内稲荷塚古墳(同)が相次いで造られます。また、向日丘陵の東に横穴式石室に家形(いえがた)石棺を納めた物集女(もずめ)車塚古墳(向日市)が出現します。冠、装飾大刀、金銅装馬具などが副葬され、突出した首長墳といえます。

今里大塚古墳の横穴式石室(2000年3月撮影)=長岡京市提供

 終末期、聖徳太子が活躍した時代に最後の首長墓である今里大塚古墳(長岡京市)が築かれます。石舞台古墳に代表される巨石墳の仲間であり、被葬者は大和の大王家や大豪族との関連をもっていたとみられます。

乙訓古墳群の位置

 このように、乙訓古墳群は、古墳時代前期初頭から終末期の全時代の首長墳が存在し、近畿中央部と深い関連をもちながら、造墓活動を続けた列島内でも希有(けう)な古墳群といえます。前期から終末期にかけ、古墳は墳形や埋葬施設、副葬品が変化していきます。天皇陵に立ち入りができない現在、その代わりに古墳の各時代の在り方を知ることもできます。中でも整備された恵解山古墳や天皇の杜古墳、公園敷地内にある元稲荷古墳はいつでも見学ができます。物集女車塚古墳も整備ずみで、イベントにあわせ石室に入ることができます。また、出土品は府立山城郷土資料館、向日市文化資料館、長岡京市埋蔵文化財センター、京都大学総合博物館で展示されています。さまざまな古墳や施設を巡って首長の活躍に思いをはせてみてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 石崎善久)