西本願寺と言えば、「お西さん」の愛称で親しまれていることは多くの方がご存じでしょう。そのお西さんの信仰の中心である御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂が、2014年9月18日に国宝指定されました。

西本願寺御影堂の梁行断面図

 宗祖親鸞(しんらん)聖人の御木像(おもくぞう)を安置する御影堂は、寛永13(1636)年に建てられた現存最大級の木造建築物で、内部は広大な外陣と壮麗な内陣が設けられています。

解体中の御影堂素屋根(2006年4月撮影)

 阿弥陀堂は、宝暦10(1760)年に建てられた本尊阿弥陀如来像を安置するお堂で、浄土真宗本堂建築の完成形を示しています。今回の国宝指定は、両堂がわが国の建築史上のみならず文化史的にも高い評価を受けたことによるものです。

 指定の契機となったのは、1998年10月から2009年7月まで10年以上の歳月をかけて実施した御影堂の平成大修復による成果が挙げられます。平成の大修復は、京都府教育委員会が所有者の本願寺様から事業を受託して実施しました。

 工事は、本瓦葺(ぶ)きの全面葺き替え、小屋組と呼ばれる屋根裏の骨組の補修、漆喰壁の塗り替え、内部彩色の補修、建具・表具の補修など、多岐にわたる半解体修理として行いました。その修理を行ううえで不可欠だったのが、御影堂をすっぽりと覆う鉄骨造の大きな素屋根でした。この素屋根が境内の中に構えられていたことはまだ記憶に残っている方も数多くおられるでしょう。

 大修復によって、今まで知られていなかった御影堂の歴史を垣間見ることができました。御影堂は寛永13年に建立されて以来、宝暦、文化、安政、明治、昭和と、宗祖親鸞の遠忌のたびに修復が行われてきたことが記録として知られていました。今回の調査で、その中でも文化年間の修復が大がかりで、規模は平成の大修復を遙(はる)かに超えたものであったことが判明しました。

床下の転用材から推定される寛永時代の小屋組矩計(かなばかり)復原図
寛永時代の旧小屋束を転用した部材が用いられている御影堂の床下
西本願寺御影堂

 当時(文化年間)の大修復は、文化8(1811)年の親鸞聖人の五百五十回忌に際し、文化5(1808)年から同7(1810)年の3年余りで行われ、柱と軒先の部材を残す以外はほとんど全てが解体されていました。

 具体的には、屋根の瓦を全ていったん降ろし、瓦葺きの下にある土居葺きや野地板などは全体的に取り外し、さらに背面側の漆喰(しっくい)の大壁もいったん解体されていました。そうしたことが分かるのは、小屋組材の多くが文化修復時の部材であること、一方、軒先の部材については解体しているような痕跡が見受けられず、当初材で構成されることなどによるものです。

 修復のもう一つの大きな成果は、床下を構成する部材が寛永建立時の小屋組材を転用していることが分かったことです。その小屋組材は小屋束や母屋などで、しかもきれいに番付が彫られていました。これらの部材を1本1本丁寧に実測し、番付に従って並べると、寛永当初の小屋組を推測することができました。掲載している図の一つは、現在の御影堂の梁行(はりゆき)断面図で、赤色部分が当初の小屋束(こやづか)材を用いている箇所を示しています。それ以外の小屋束や小屋梁などほとんどの小屋組材は文化年間の大修復時の部材になります。

 そして床下の転用材から当初の小屋組を推定したのが、もう一つの図です。転用されているもののほとんどが、現状の小屋束の2段目のものと合致し、また現状で使用されているものより長いものが多数あり、小屋組を現在と同じ3層構造とすると建物が高すぎることとなりました。

 これらの発見を考慮すると、現在の御影堂は高さが30メートルほどありますが、寛永当初の小屋組は2層構造で小屋が若干低く、高さが現在よりも約1~2メートルは低かったと推測されました。

 文化年間の大修復は、高さを実際どの程度変更する計画であったかなど詳細については解明できませんでしたが、小屋組をより強くするための大改造が行われたことが分かりました。このように、平成の大修復の機会に、今まで知られていなかった多くのことが分かり、御影堂の建築史的価値を再認識できる多くの事柄が発見できました。とは言っても、今回の修復は半解体修理でしたのでまだまだ不明な部分もあり、数百年後の解体修理時には、御影堂のまだ知られていない歩みがもっと解き明かされることとなるでしょう。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 引間俊彰)