不動産の間取り図では「和室6畳」や「洋室8畳」などの言葉が使われ、見る者に大まかな広さをイメージさせます。近年畳のない居室が増えましたが、まだまだ畳は身近な存在です。今回はその畳について、昨年修理工事を完了した国宝観智院(かんちいん)客殿を例に紹介します。

こけら葺きや檜皮葺きに復原された観智院客殿(2016年8月撮影)=府教委提供

 観智院は、京都市南区にある東寺の子院の一つで、東寺の北大門から北総門に至る櫛笥(くしげ)小路の南端、洛南高校の東側に位置します。1359(延文(えんぶん)4)年に東寺三宝の一人である杲宝(ごうほう)が創建し、以降、教学の中心施設として発展しました。1609(慶長14)年に幕府が出した法令では、観智院を「一宗之勧学院」、つまり、真言宗の教育機関としています。

宮本武蔵筆の「鷲図」(右)および「竹図」の障壁画を飾る「上段の間」(2016年8月撮影)=府教委提供

 境内南側に立つ客殿は、1605(慶長10)年に建立されたものです。外部は正面に玄関となる「車寄(くるまよせ)」を設け、右手には本堂へ続く廊下となる「中門(ちゅうもん)」を配します。内部は正面側に「上段の間」と「次の間」を、背面側に「羅城(らじょう)の間」ほか2室を並べ、「上段の間」には宮本武蔵筆の「鷲図」および「竹図」の障壁画を飾ります。客殿は、観智院の院主が居住するための住宅建築で、室町時代に盛んに建てられた「主殿」と呼ばれる形式を伝える数少ない建物として貴重であり、国宝に指定されています。

手織り備後産畳表の製作=府教委提供

 2014年から16年にかけて京都府が所有者から委託を受けて実施した修理では、1927(昭和2)年の修理で葺(ふ)き改めた銅板葺き屋根を、それ以前の姿であるこけら葺き(椹(さわら)板を葺き重ねた屋根)、「車寄」は檜皮(ひわだ)葺き(ヒノキの樹皮を葺き重ねた屋根)に復原する工事を行い、あわせて畳などの補修を行いました。

 畳は、稲藁(わら)を何層にも重ねて縫い停めた畳床(たたみどこ)と、い草を編んだ畳表(たたみおもて)を縫い合わせたもので、日本独自に発展したものです。現存する一番古いものとしては、正倉院に「御床畳(ごしょうのたたみ)」と呼ばれる奈良時代の畳が伝わります。

手縫い畳床の製作=府教委提供

 平安時代には、法令で官位に応じて座る畳の規格などが定められます。また、「源氏物語絵巻」などの絵巻物に盛んに描かれた姿から宮中や貴族の邸宅において、座具や寝具として部屋の所々に畳を置いて使用する様子がうかがえます。

 その後、鎌倉時代から室町時代に移る頃には、一部の貴族の邸宅で畳を部屋全面に敷き詰めるようになり、江戸時代には庶民の住宅にも徐々に普及するようになります。

 このように日本固有の文化として発展してきた畳ですが、その製造方法などについては、大きく変化しています。

 近年、材料となる稲藁確保の問題などから、化学製品を使用する畳床が多く、また、価格の安価な中国産畳表などの輸入も増加しています。さらに、ほとんどの畳は、畳床および畳表を作り、それらを縫い合わせて畳とするまで、全て機械で製造したものです。現在畳床を手縫いで製作できる企業は全国で2社程度、広島県福山市を中心とする備後産畳表を手織りで製作できる企業は1社しかありません。

畳の製作=府教委提供

 客殿の修理工事では、補修して再利用できる畳床を背面側の「羅城の間」に集め、正面側の「上段の間」10畳と「次の間」15畳の畳を新調しました。いずれも稲藁を使用した畳床に、備後産畳表を縫い合わせたものですが、「次の間」が機械で圧縮し製造した畳床に機械織機で織った畳表を縫い合わせたのに対し、「上段の間」は手縫いで重ねた畳床に手織りした畳表を手縫いで合わせたものです。同じ材料を使用した両室ですが、実際に畳を踏み、座ると、その違いは歴然としており、感覚的に言うと、「カチカチ」と「ふんわり」です。

 観智院は公開されておりますので、皆様も観智院を訪れ、手仕事と機械製造の違いを一度体でぜひ感じてください。 (京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 竹下弘展)