島田神社本殿は、福知山市の西南部字畑中(はたけなか)に鎮座し、周辺は上豊富(かみとよとみ)地区と呼ばれています。寛政6(1794)年にまとめられた「丹波志」によると、畑中は「古豊富村」五箇村の一つとされ、島田神社はその総鎮守として五箇村で祭礼を務めていました。

 本殿は、内法貫(うちのりぬき)の墨書から文亀2(1502)年の建立とされ、府北部で数少ない中世神社本殿遺構として、昭和62(1987)年に重要文化財に指定されました。

修復が完了し、建立時に近いと考えられる姿になった島田神社本殿=写真はいずれも京都府教育委員会提供
修復前の島田神社全景

 修理前の本殿の大きな特徴は、軒が切り縮められ、屋根葺(ふき)材がなくなり、拝殿と一体となった覆屋(おおいや)に納められていることでした。この拝殿と覆屋は、昭和9(1934)年に島田神社の村社昇格に際し新築されたもので、重要文化財指定時の構造形式も「屋根を欠く」という珍しい表現がされていました。また、本殿の周りには縁の取り付いた痕跡があること、垂木の木口に赤色塗装が残存していることなども確認されていました。

 文化財建造物の修理は、様々(さまざま)な調査を行い、建立から現在までの変遷を明らかにしていくことが求められます。島田神社の本殿のような場合、元々の屋根がどうであったかを調べることが大きな課題でした。しかし、当時の設計図があるわけではなく、残された材料の痕跡や古写真などの資料から解き明かしていくしか方法はありません。

 幸いなことに、切り縮められる前の垂木の部材が屋根から取り外して2本残されていたこと、古写真により垂木の本数などが分かったこと、発掘調査により当時の雨落ちの位置が明らかになったことで、軒の出(屋根の大きさ)が明らかになりました。屋根葺材については、近隣の遺構を調査した結果、こけら葺(ぶき)に整備することとなりました。

修理前の本殿屋根。屋根葺材が失われている
部材が煤け、火を焚いた痕跡が残る床下
火を焚いた灰の層などが確認された発掘調査
島田神社

 垂木に残っていた赤色塗装は、成分分析の結果、純度の高い赤色顔料粒子で構成元素は鉄でした。現在は「弁柄(べんがら)」といわれているものですが、色としては赤茶色よりももっと赤みの強い色でした。また、板壁からは白色の成分であるカルシウムが検出され、本殿は、元々赤色と白色で塗装されていたことが分かりました。以上のように様々な調査をしていくことで当時の本殿の姿かたちが明らかになり、その結果が今回の修理に反映されています。

 また、そのほかにも明らかになったこともあります。当本殿は向拝(こうはい)から内陣に向かって床が順に高くなり、内陣床下は人が立てるくらいの高さになります。解体が始まり徐々に床下が明るくなると、床下の材料が非常に煤(すす)けていることが分かりました。これは明らかに床下で火を焚(た)いていた痕跡、それもかなり長い期間そうした結果だと考えられました。内陣内部は下からの煙で壁から天井まで真っ黒に煤けていました。先述の軒の出確認のための地下調査の際に、表土を深く取り除くと下から火を焚いた灰の層と焼けた土の痕跡がいくつも発見され、それが裏付けられました。

 本殿床下で火を焚くという行為は、兵庫県の日出(ひいで)神社本殿(兵庫県豊岡市 室町後期 重要文化財)や、酒垂(さかだれ)神社本殿(兵庫県豊岡市 文安元年 重要文化財)などでも報告されています。近隣神社には、篭(こも)り堂と称する建物があり、祭りの前夜や大晦日(みそか)に一晩お堂に篭るという習慣が残っています。当社でも、現在は社務所と呼ぶ建物も、棟札(むなふだ)には「篭堂」と記されています。

 当本殿の煤けは、本殿床下に篭って火を焚くことが中世に盛んに行われていたことを想像させます。また、この地下調査からは、本殿の礎石とは関係のない石列が発見され、鎌倉時代に遡(さかのぼ)る一回り小さい基壇が確認でき、さらにそれ以前に築かれた土壇上の盛り上がりも報告されています。したがってこの島田神社の建っている場所は室町時代に突然できたものではなく、古来より特別な場所であったことも新たに明らかになりました。本殿の床下で中世の人は何を思ったのか。そういった目で一度本殿を見ていただくのもよいかと思います。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 小宮睦)