光明寺境内図

 光明寺は、綾部市の東北、君尾(きみのお)山の中腹にある真言宗の古刹です。寺伝では、聖徳太子の創立と伝え、延喜(えんぎ)年間(901~923年)に醍醐寺の聖宝理源(しょうぼうりげん)によって真言の道場として中興されたといわれています。南向きの尾根に沿って伽藍(がらん)を構えており、最も低い位置に二王門、高い位置に本堂ほか太子堂、鐘楼、行者堂が配置されています。

 二王門は、京都府北部で唯一国宝に指定されている建物で、鎌倉時代、1248(宝治2)年に建てられました。屋根が2段に架かる「二重門」で、この形式の門としては、飛鳥時代の法隆寺中門に次いで古いものです。間口3間の中央を通り抜ける形ですが、扉はありません。通路両脇の奥に二王像を安置していますが、その前に床を設けているのも、特異な形式です。外観は二重ですが、内部に2階はありません。2階建てに見せることによって、お寺の正門として格が高い建物であることを誇示しているのです。軒を支える組物も、「三手先(みてさき)」と呼ばれる最も複雑な形式で、これも建物の格の高さを示しています。

 近年では、1950(昭和25)年より52年にかけて、建物を一旦全て解体して修理が行われました。この時の修理では、天井板に転用されていた棟札(むなふだ)や、建立年代を記した墨書が見つかりました。修理に際して、長い年月の間に改造された部分を旧に復して、建立当初と考えられる姿に改められました。

修理前の光明寺二王門。珍しい二重屋根の門。外観は2階建てだが上重内部に部屋はない(2016年4月撮影)=京都府教育委員会提供

 屋根は「とち葺(ぶ)き」と呼ばれる板葺きです。板で屋根を葺くやり方としては、厚さ3ミリほどの薄板を使う「こけら葺き」が知られており、有名な建物としては、銀閣(銀閣寺)や飛雲閣(西本願寺)などがあります。「とち葺き」は、厚板を使うものを指し、ここ二王門では、厚さ2・4センチ、長さ75センチのクリ材の板を、24センチずつずらしながら葺き重ねています。クリは、水に対して強い材料で、かつては、家の土台や、線路の枕木などに使われてきたものです。昭和修理の時、1枚の古い屋根板が屋根裏に残されました。この板は、裏返して2回使われており、今から3代前のものとわかります。屋根の耐用年数を考えると、今の屋根の材料や工法が、200年前くらいまでは確実に遡(さかのぼ)ることがわかります。

とち葺きの解体中。クリの厚板を1枚ずつ釘止めして葺き重ねている(16年10月撮影)=京都府教育委員会提供

 建物本体に使われている木材は、スギです。おそらく、この近くで調達した材料でしょう。非常に良質な材が使われており、建立当初の部材がかなり多く残っています。現在は、製材というと、鋸(のこぎり)による切断ですが、当時は、縦方向については木を繊維に沿って割って(裂いて)いました。建物内部の、外から見えない部分には、その状態がよく残っていて、建物の古さが圧倒的な存在感で伝わってきます。実際、割ってつくった材は、繊維を切断しないので、強く、変形が少なく、長持ちします。また、このように割ることができるのは、良材の証しともいえます。二王門が800年近くも耐えられたのは、こういったことにも秘密があります。

 昭和に根本的な修理を行っていることから、木部の傷みはほとんどありません。今回の修理では、昭和修理から65年を経て大きく傷んだ屋根板の葺き替えと、剝落の進んだ塗装の塗り替えを行っています。

 残念ながら、昭和修理の調査記録は残っていませんが、科学的な調査手法の進んだ現代だからこそ明らかにできることもあります。

二王門内部。木材を繊維に沿って割った跡、釿(ちょうな)と呼ばれる工具で表面を粗く整えた跡がよく残る(17年4月撮影)=京都府教育委員会提供

 使われている木材がいつのものかを探るのに、「年輪年代」と「炭素年代」という二つの調査を行いました。前者により、1245年に伐られた木が使われていることが判明し、建立年代が科学的に裏付けられました。また、後者により、建物の構造材である「貫(ぬき)」の多くが室町時代の材と判明し、この時に大きな構造強化が図られたことが窺えます。

 保存されていた古材に、建立当初のものとみられる赤色がついており、これをX線や電子顕微鏡で調べることにより、酸化鉄系の色粉である「ベンガラ」が使われたことがわかり、この結果を今回の修理にも反映させます。

 木々の緑と、真新しく塗られた赤色のコントラスト。1年後には皆さんの前にその姿を現します。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 浅井健一)