史跡宇治川太閤堤跡全景(2007年8月撮影)=宇治市提供

 「太閤」とは前の関白の事ですが、一般的には豊臣秀吉(1537~98年)を指します。秀吉は、91年に関白と、京都での居城・聚楽第をおいの秀次に譲り、翌年伏見に移り住み、宇治川に面した風光明媚(めいび)な地に城と城下からなる自らの拠点を築きました。

 伏見の整備と併せて、秀吉は宇治川に大規模な堤防を築造しました。この時に造られたいくつかの堤防は、後に「太閤堤」と総称されることになります。

 伏見城を築城するまで、宇治川は宇治橋の下流でいくつかの流れに分かれ、巨椋池に合流していました。しかし、太閤堤の築造によってその姿は大きく変わり、宇治川の流れは1本となって伏見城の前を流れるようになりました。太閤堤が造られたことによって、伏見の町は宇治川を介した水運の要衝となりました。秀吉は、城下町の伏見を水運で発展させるために宇治川太閤堤を造り、それまで誰も制御できなかった宇治川の流れを変えることに成功したのです。しかし、太閤堤はその後埋没したり、新たな護岸が施されたりして実際の姿は謎に包まれたままでした。

杭止め護岸(2007年9月撮影)=宇治市提供

 2007年に宇治川右岸の京阪宇治駅の北側で、宇治市が実施した発掘調査により、太閤堤跡の大規模な遺構が姿を現しました。400メートル近い長さにわたり、安土桃山時代の当初の姿をよく保った状態で発見された大規模な堤跡は、人々を驚かせました。発見された堤跡は、宇治川の氾濫で埋没し、近代になって新たに現在の堤防が築かれたため、河川の範囲から外れて極めて良好な状況で保存されていました。

 宇治川太閤堤跡は、護岸遺構と、水制(すいせい)遺構から構成されます。護岸遺構は宇治川の水流から川岸を守ることを目的とし、石を積み上げてその上半分に石貼りを施す「石積み護岸」と、杭(くい)や板材などの木材の内側に割り石を充填(じゅうてん)させる「杭止め護岸」があります。

護岸及び石出し(奥)(2007年9月撮影)=宇治市提供

 水制遺構は堤防や護岸に当たる水流の勢いを弱めるための施設で、護岸から垂直に張り出す石造りの「石出し」と、護岸から下流側に向かって杭列を長く出す「杭出し」があります。石出しは、ほぼ90メートル間隔で4カ所確認されました。平面形態は台形状で、側面には石垣が積まれていました。石垣の内部には割石が充填され、石垣の積み方は城郭の石垣を思わせるような立派なものでした。杭出しは2カ所で検出され、杭列の中に割石が充填されていました。発掘調査によって、このようないくつもの水制遺構がセットとなって機能していたことが分かりました。

 宇治市は、遺跡の重要性から保存の方針を固め、07・08年に追加調査を実施し、09年7月治水・交通に関する施策と土木技術を具体的に示す重要な遺跡として、国史跡に指定されました。

 

 江戸時代になると、徳川将軍家をはじめとする有力者によって宇治の茶が珍重され、宇治では茶栽培が盛んになりました。宇治川太閤堤跡が埋没した土地は、茶園として利用され、現在も史跡内で茶栽培が行われています。宇治茶は現在も山城地域の名産品として著名であり、日本遺産「宇治茶800年の歴史散歩」の構成資産として宇治茶にまつわるさまざまな文化財が認定されています。

 また、宇治市は、「宇治茶と歴史・文化の香るまちづくり」をまちづくりの目標に掲げ、その中核的な施設として秀吉の雄大な治水事業と、江戸時代の茶園の両方を体感できる「(仮称)お茶と宇治のまち歴史公園」の整備を進めています。今後、宇治市の新たな名所として多くの人に親しまれることが期待されます。公園のオープンはまだ先ですが、京都府では「お茶の京都」として、山城地域の魅力を発信しています。是非、宇治の地を訪れてみてください。(京都府教育庁指導部文化財保護課記念物担当 古川匠)