京都府の北部に位置する綾部市。由良川が大きく蛇行して流れる市街地から、北へ丘陵を一つ越えた吉美盆地に、今回ご紹介する聖塚(ひじりづか)古墳と菖蒲塚(あやめづか)古墳があります。

航空写真で撮られた聖塚古墳(左)と菖蒲塚古墳の全景(綾部市教育委員会提供)

 二つの古墳はいずれも四角い形をした大型方墳で、府道74号線沿いに120メートルの距離を隔てて並び築かれています。現在みられる墳丘の大きさは、聖塚古墳が一辺約45メートル、菖蒲塚古墳が一辺約25メートルです。聖塚古墳のほうが菖蒲塚古墳よりも一回り規模が大きく、近接した場所に方向を同じくして並んでいるその姿から、夫婦塚(めおとづか)として人々の注目を集めてきました。

 聖塚古墳は、明治24(1891)年に地元の人々によって、被葬者が埋葬された墳頂部が掘り起こされました。その時の様子は、後に京都大学教授となる梅原末治(うめはらすえじ)氏がおこなった聞き取り調査にまとめられています。それによると、埋葬施設は古墳時代前期から中期によくみられる竪穴式石室だったようです。また、棺は朽ち果てていたようですが、これを覆っていたとみられる粘土の塊が出土し、そこには朱が付着していたと報告されています。出土した副葬品には、鏡、勾玉やガラス玉などの玉類、甲冑や刀剣などの武器・武具類があります。

 大正6(1917)年には、先述の聞き取り調査とともに両古墳の測量調査が実施され、墳丘の構造が詳細に分かりました。聖塚古墳については、墳丘の途中に段を持つ二段築成であること、墳丘の表面には葺石が敷き詰められていたこと、墳丘の上には埴輪が並べられていたことが判明し、菖蒲塚古墳についても同様の構造であると述べられています。

発掘調査で確認された菖蒲塚古墳の造り出し(綾部市教育委員会提供)
現在の聖塚古墳(京都府教育委員会提供)
現在の菖蒲塚古墳(京都府教育委員会提供)
聖塚古墳・菖蒲塚古墳

 それから半世紀以上経(た)った昭和58(1983)年、古墳の周辺でほ場整備が計画され、綾部市教育委員会によって発掘調査が実施されました。この調査では、今まで水田の下に埋もれていて不明だった古墳の規模や付属施設などが明らかとなりました。

 聖塚古墳では葺石が敷き詰められた墳丘の裾部が見つかり、本来の古墳の規模は一辺54・2メートルであったこと、古墳の周囲には幅約12メートルの周濠が巡ることが確認されました。古墳の南辺では、造り出しと呼ばれる墳丘が突出した部分が見つかりました。造り出しからは埴輪の破片が多量に出土し、ここで葬送にかかわる祭祀がおこなわれたと考えられています。

 菖蒲塚古墳においても墳丘の裾部が確認され、本来の古墳の規模は一辺32・3メートルであったことや、幅約6メートルの周濠を持つことが明らかとなりました。また、聖塚古墳と同じく古墳の南辺では造り出しが見つかりました。菖蒲塚古墳の造り出しは途中でクランク状に屈曲して二重に突出するもので、ほかに類例のない特異な構造をしています。

 このように二つの古墳は、葺石や埴輪、造り出しや周濠といった要素を持っていますが、これらは奈良県や大阪府など、畿内にある大型前方後円墳に共通してみられる特徴です。古墳が築造された時期はどちらも5世紀前半と考えられていますが、由良川流域ではこれらの特徴を備えた最初の古墳となります。両古墳は方墳ではあるものの、この地域において畿内からの影響を受けた大規模な古墳造営の先駆的存在であるといえます。

 発掘調査の成果により、それぞれの古墳の重要性が認められた結果、周辺の水田は地元の協力のもと、ほ場整備が実施されずに保存されることになりました。その後、綾部市によって公有地化が進められ、1992年には国指定史跡となりました。明治、大正、昭和と各時代の人々が調査や保存に携わってきた聖塚古墳・菖蒲塚古墳ですが、こうした努力が実を結び、大切な文化財として将来に残されることになったといえるでしょう。

 現在、古墳の周辺には水田が広がっており、墳丘の上では草木が風にそよぐのどかな風景が広がっています。皆さんも現地を訪れて、いにしえの古墳時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。また、近くにある綾部市資料館では、聖塚古墳と菖蒲塚古墳の築造当時の想像復元図が展示されています。こちらにもぜひ足を延ばしてみてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 岡田健吾)