民家は過去の庶民の生活文化を知る上で重要な遺産の一つといえます。しかし、高度経済成長期に人々の生活様式が大きく変化する中で、その数は急速に減っていくこととなりました。このため、京都府教育委員会では1964年から73年にかけて府内全域の民家建築についての調査を行い、地域ごとの特徴や時代的変遷を明らかにするとともに、各地域における代表的な民家の抽出を行いました。

 この結果を受けて72年と75年に9件の民家が重要文化財に指定されましたが、この時に山城地域を代表するものとして同時に指定されたのが、伊佐家住宅(八幡市)と澤井家住宅(京田辺市)の主屋(おもや)になります。

伊佐家の正面外観。厚い茅葺屋根が軒先まで葺かれている=写真はいずれも府教育委員会提供
澤井家の正面外観。接客用の玄関、内向きの玄関、土間への入口が並ぶ

 伊佐家住宅は、木津川に架かる通称「流れ橋」(上津屋(こうづや)橋)の西詰め近くに位置します。伊佐家は江戸時代には幕府領の庄屋を務めた家柄で、主屋は享保19(1734)年に再建されたものです。平面はこの地域で一般的な「整形四間取(せいけいよつまど)り」(いわゆる「田の字形」のもの)に書院風の座敷を付け加えたもの、屋根は入母屋造(いりもやづくり)で茅葺(かやぶき)のものをそれぞれ基本に、後世の改造が加えられた複雑なものとなっています。

 澤井家住宅は、伊佐家住宅の南方約3・5キロに位置します。澤井家は江戸時代には尼門跡(あまもんぜき)寺院である曇華院(どんげいん)領の代官を務めた家柄で、主屋は元文5(1740)年から翌寛保元年にかけて再建されたものです。平面は背面側に数寄屋(すきや)風の続き座敷を突出させるという特殊なもので、屋根は平面にあわせて入母屋造で茅葺のものをL字型に組み合わせ、この周囲に本瓦葺(ほんがわらぶき)や桟瓦葺(さんがわらぶき)の庇(ひさし)を巡らせたものとなっています。

 さて、一見したところ違いの大きいこれらの建物ですが、再建時に作成された古文書や棟札、建物に残された墨書(ぼくしょ)から、いずれも「松井村前川吉兵衛」という地元大工を中心とする大工集団によって建築されたことが分かっています。このため、よく見ていくと細かなところで共通点が確認できるのですが、その中で最も特徴的なものとして「特殊な叉首組(さすぐみ)」が挙げられると考えています。

澤井家の叉首組。背面(右手)側で叉首を二重に設けている
伊佐家住宅・澤井家住宅

 叉首組とは、茅葺の屋根を支えるために、梁(はり)の上に2本の叉首(丸太を加工したもの)を三角形に組んだもので、通常は前後の叉首を同じ長さ、同じ勾配として組むこととしています。ところが、伊佐家と澤井家の主屋では前後の叉首を異なる長さ、異なる勾配となるように組み、勾配が急となる側の叉首と茅葺との間に、伊佐家では束と呼ばれる短い木材を追加し、澤井家では叉首を2本重ねて、反対側と勾配をそろえるという複雑なことを行っています。

 このような特殊な叉首組を設けた理由としては、江戸時代における建築規制の一つである「三間梁(さんけんばり)規制」の影響が考えられます。この規制は、建物の中心部分の梁の長さを3間(約6メートル)までとすることを求めるものですが、伊佐家と澤井家の主屋が再建された頃は、このような建築規制を守ることが特に厳しく求められていました。一方で、伊佐家や澤井家などの上層農家では、再建前の主屋が大規模で、3間よりも長い梁に叉首を組んで大きな屋根としている場合が多かったようです。このため、「三間梁規制」を守りながらも少しでも大きな屋根を設けるための工夫として編み出されたのが、この特殊な叉首組ではないかと推測しています。

 ところで、澤井家の叉首組については、後世の修理で簡単な形式に改められていたものを、2004年から07年にかけて行った解体修理の中で復原したものです。この叉首組の復原は、解体時の調査で発見した痕跡を基本に、古図面や古写真の情報も加えて検討した上で行ったものですが、この時に良い実例として参考になったのが伊佐家に残された叉首組だったのでした。

 なお、この特殊な叉首組、残念ながら天井裏にあるために簡単に見ることはできません。しかし、天井下の部分においても、二つの建物を見比べることで、この地域・時代の上層農家の特徴をより実感できるのではないかと思います。伊佐家・澤井家とも事前申し込みなどによる公開を行っていますので、いわば兄弟関係にあるこれらの建物を、順に巡って見学されることをお勧めします。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 島田豊)