わびさびの風情で名高い銀閣ですが、その名の通り、かつては銀箔(ぎんぱく)が貼ってあったという話を聞いたことのある方も多いと思います。銀箔を貼った銀閣もぜひとも見てみたいものですが、今回はその説の真偽にまつわるお話をご紹介したいと思います。

一見すると何も塗られていないように見える銀閣の外観=写真はいずれも京都府教育委員会提供

 銀閣寺の通称で親しまれている慈照寺(じしょうじ)は、五山送り火で有名な如意ケ嶽の麓にあります。室町幕府八代将軍足利義政が応仁の乱の後に隠棲(いんせい)した山荘東山殿を起源とし、延徳2(1490)年の義政の没後、遺命により臨済宗の禅寺となり、義政の法号にちなんで慈照寺と名付けられました。

 境内には他にも多くの建物がありましたが、創建当初から残るものは東求堂(とうぐどう)と銀閣のみで、東山文化を代表する建物とされています。通称では銀閣と呼ばれている観音殿(かんのんでん)は、上層は禅宗仏堂風で内部には観音菩薩(ぼさつ)を祀(まつ)り、下層は住宅風とする2階建ての楼閣建築です。

 屋根はこけら葺(ぶ)きといって、薄い椹(さわら)の木の板(こけら板)を少しずつずらして重ねたものなのですが、こけら板が耐用年数に達していたために屋根の葺き替えを主とした修理工事を2007年11月から10年12月に実施しました。この時、銀閣に実際に銀箔が貼られたのかどうかを解明するための調査も実施しました。

塗装の痕跡が残る銀閣の上層(大正時代の古写真)

 銀閣の外観は一見すると何も塗られていないように見えるかもしれませんが、上層には塗装の痕跡があることが以前から知られていました。ちなみに、「銀閣」の呼び名を初めて確認できるのは、江戸時代の京都名所案内(今で言うところの観光ガイドブック)の一つで、万治元(1658)年に作成された「洛陽名所集」で、「慈照寺は銀箔で彩られた閣があるので銀閣寺とも呼ぶ」と解釈できる記述があります。

 これ以降のほとんどの書物では「銀閣寺」と称していることから、江戸時代初めごろから銀閣と通称されるようになったと思われます。一方で、正徳元(1711)年の「山州名跡志(さんしゅうめいせきし)」には「箔を貼る前に義政は亡くなった。箔はないといっても、その趣から銀閣と呼ぶのであって、実際に銀箔があると思うのは誤りである」旨が記されています。

 さて、目視による観察と科学分析による今回の調査では、残念ながら銀箔の痕跡は発見できませんでした。銀箔を貼る計画があったかどうかは明らかではないものの、「銀閣」の通称は観音殿が楼閣建築として金閣(正式には舎利殿(しゃりでん))とともに人々の話題に上り対比されるうちに、銀箔が貼ってあった(もしくは貼る計画であった)という憶測がいつの間にか広まったためについたものかもしれません。

黒漆が施されていたことが分かる上層の柱の上部

 銀閣に銀箔が確認できなかったことは、みなさんをがっかりさせてしまったかもしれません。しかしその代わりに、上層の内外壁には黒漆が、そして軒まわりの部材には色鮮やかな彩色文様があったことが明らかになりました。

桁(けた)に残された文様の痕

 義政は東山殿の造営にあたって西芳寺を手本としており、建物の一つ一つが西芳寺のそれらと比較対照して建てられていました。現在は「苔寺」の通称で親しまれる西芳寺の瑠璃殿は現存しませんが、銀閣と同じ2階建ての楼閣建築でした。観音殿はこの瑠璃殿に強い影響を受けていると考えられ、またその斬新な姿は金閣も参考にしたものと思われます。

慈照寺銀閣

 当代きっての文化人だった義政ですから、それらの楼閣に負けない観音殿を造ろうと思ったに違いありません。その答えは、上層を黒漆塗りと彩色を組み合わせたものとするという、建築彩色という観点において金箔貼りに勝るとも劣らない華やかなものでした。その構想にたどり着くまでに、観音殿に銀箔を貼るという案もひょっとして義政の頭に浮かんでいたのかも知れないと思うと、銀閣と呼び習わすこともあながち間違いではないのかもしれません。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 福島匠)