マンガン鉱の入り口(奥)の手前に放置された発動機。マンガンを搬出する際に用いられたとみられる(南丹市美山町・大野ダム付近)

マンガン鉱の入り口(奥)の手前に放置された発動機。マンガンを搬出する際に用いられたとみられる(南丹市美山町・大野ダム付近)

マンガンにまつわる朝鮮人の歴史を後世に残そうと力を尽くした故李貞鎬さん(中山和弘さん撮影)

マンガンにまつわる朝鮮人の歴史を後世に残そうと力を尽くした故李貞鎬さん(中山和弘さん撮影)

 京都府の丹波地域は、1890年代から1970年代まで国内屈指のマンガンの産地だった。軍需物資などとして多くの労働力が投下され、にぎわいを地域にもたらした陰で、粉じんにまみれて働いた結果、朝鮮人労働者を中心にじん肺も広がった。鉱山労働の実態を知る人が減り、記憶の継承が困難さを増す中、関係者は一帯に残る鉱山跡の活用法を模索する。

■兵器生産に重要な役割、マンガンで栄えた町

 マンガンは、奈良時代の僧道鏡が薬として服用したという伝承もあるほど歴史は古い。明治期後半から産出が増えたのは、鉄に混ぜると強度が高まり兵器生産に重要だったため。丹波産は不純物が少なく、戦艦大和の主砲やドイツの潜水艦Uボートの電池に使われたとされる。

 マンガンが集められた南丹市日吉町には多くの料亭や旅館が並んだという。300を数えた鉱山は80年代までに軒並み閉じたが、跡は多い。同市美山町の大野ダムの遊歩道脇に、マンガン鉱の入り口がある。近くには搬出に使ったとみられる全長約4メートルの発動機が放置されている。

■タングステン鉱山も

 希少金属タングステンの鉱山跡もある。亀岡市薭田野町の大谷鉱山には搬出のトロッコが通った幅約2メートルの坑道が残る。近くの神社には縦60センチ、横40センチの茶色がかったタングステン鉱石がまつられる。これら鉱山の跡地は、丹波で産出が盛んだったことを今に伝える。

 一方で、労働は過酷だった。23歳まで鉱山で働いた南丹市日吉町の上段敏雄さん(80)は「ものすごい粉じん。ずっといたら命をほかす(捨てる)と思った」と話す。7年で辞めたが、肺機能が低下するじん肺を患い、今も治療が続く。

■弱い立場の朝鮮人が危険作業に 「病み捨てられてなるものか」

 丹波の鉱山の歴史を調べる元高校教員、田中仁さん(69)=同市園部町=によると、45年には大谷鉱山で強制連行された47人の朝鮮人が働かされた。ないに等しい賃金と粗末な食事。立場の弱い朝鮮人が爆破など危険な作業に当たった。

 朝鮮人の苦難を語る上で欠かせない存在が同市日吉町などの鉱山で働いた李貞鎬(イジョンホ)さんだ。私財を投じ、京都市右京区京北の新大谷鉱山跡に「丹波マンガン記念館」を建てた。豊臣秀吉の朝鮮出兵による犠牲者の耳や鼻を埋めたとされる耳塚になぞらえて「肺塚」と呼んだ。

 95年に62歳で亡くなった。晩年は激しいせきにさいなまれた。「かわいそうで聞いていられなかった」。次女で「NPO東アジアの鉱山史を記録する会」(京都市北区)の順連(スンヨン)さん(58)は思い起こす。じん肺患者でつくる南丹支部は2019年に活動を終えた。鉱山にまつわる記憶は失われつつある。

 「終わらせるわけにはいかない」と力を込める順連さん。日吉町や美山町などの遺構と島根県の石見銀山などと絡めた鉱山史の発信を考えている。鉱山跡に美山町のかやぶきの里などの観光を加えたツアー開催の構想も描く。さらに日吉町に建つ追悼碑前での慰霊祭も計画する。「歴史を残さなければならない。病み捨てられてなるものか」という貞鎬さんの遺志を引き継ぐ思いは、揺るがない。