新聞は「社会の木鐸(ぼくたく)」といわれる。鐸とは大きな鈴を意味する。

 世の中に警鐘を鳴らし、社会をより良い方向に導くとの自負を込めた言い方だろうか。

 いささか古くさく、上から目線だと感じる方もおられよう。

 新聞にとって、難しい時代である。真面目に鐘をたたいているつもりでも、世の中や読者に響きにくくなったと感じることがある。

 時に、痛烈な批判も受ける。京都アニメーション放火殺人事件の実名報道については「遺族が公表したくないのに、なぜ無理に報道するのか」との抗議が相次いだ。

 安否に関する情報や事件の全体像を誤りなく伝えるうえで、実名は真実性を担保し、検証を可能にする重要な要素である-。私たちはそう考えてきた。

 だが、遺族や読者の中には実名報道自体への拒否感を持つ人が少なくないことを痛感させられた。

 実名を報じられることで遺族が過熱報道に困惑したり、ネット上の中傷にさらされたりする可能性は否定できない。取材過程では状況により遺族への接触を控え、提供を受けた顔写真は遺族の了承を得られなければ掲載を見送った。

 犠牲者の実名を伝えることの是非に関しては、記者の間にもさまざまな意見がある。遺族に配慮しながら必要な事実を報じる方法について、取材現場では模索が始まっている。迷いながら、答えを見つけていくしかない。

 一方で、実名報道を巡っては、もっと深い問題が存在する。社会の要請だといって報道の匿名化が進めば、警察や政府なども実名発表をしなくなる可能性がある。

 情報を独占する公的機関が実名を恣意(しい)的に伏せ、政治家や官僚など公人の不祥事や意思決定過程も表に出にくくなる恐れがある。

 そうした危険性に対し、注意を促す鐘を鳴らし続けるのも、私たちの重要な使命である。

 ネットを通じ、誰でも情報や言論の発信者になれる昨今である。中には特定の国や個人を安易に攻撃する内容もみられる。

 発信者の意見や思いが、むきだしのまま拡散する危うい現状が、世の中の空気を不寛容でとげとげしくさせているようにも思える。

 こんな時代だからこそ、新聞記事が多くの記者やデスクの目を通り、多様な議論をふまえて作られていることを知ってほしい。

 新聞週間が始まった。批判を受けとめつつ、立ちすくむことなく役割を果たしたい。「木鐸」の意味を改めて考えねば、と思う。