回天搭乗員時代の経験を語る瀬川清さん。100歳を前に曖昧な箇所も増えているが、懸命に記憶をたどってくれた(京都市北区)

回天搭乗員時代の経験を語る瀬川清さん。100歳を前に曖昧な箇所も増えているが、懸命に記憶をたどってくれた(京都市北区)

 「これが貴様たちの棺桶(かんおけ)だ」。太平洋戦争末期、特攻兵器の人間魚雷「回天」搭乗員になった京都市北区の瀬川清さん(97)は、上官が回天を指さしつつ言い放った言葉に度肝を抜かれた。20歳で学徒出陣し、特攻隊員として終戦を迎えた。長女の小学校講師、松岡隆子さん(66)は、100歳を前に父の証言を後世に残すのは今しかないと考え、京都新聞社に瀬川さんの体験記を送ってくれた。

 体験記と瀬川さんの話によると、瀬川さんは関東大震災が起きた1923(大正12)年、中京区に生まれた。慶応大予科生だった43年秋に学徒出陣し、海兵団に入団。神奈川県の久里浜対潜学校に配属された。

 ある日、一室に集められた30~40人の若者に上官がこう告げた。「海軍で特殊兵器がつくられた。志願者を募りたいが、そう言うと全員志願するだろうからこちらで選ばせてもらう」。瀬川さんは特攻隊員に選ばれた。事実上の命令だったという。

 44年12月、回天特攻隊光基地(山口県)に入り、不気味な黒い鉄筒を初めて目にした。回天は海軍が戦局打開のため開発した特攻兵器で、出撃すれば死を避けられなかった。訓練も死と隣り合わせ。瀬川さんは、搭乗訓練中の誤操作が原因で潜望鏡を顔にめりこませて死んだ隊員の遺体を目撃した。戦友の中には、京都帝大を繰り上げ卒業して回天搭乗員になった後の新京都学派の哲学者、故上山春平さんもいた。上山さんも訓練中に遭難して窒息死寸前で救助された。

 「死を考えると不安になる。だから考えることを無意識に避けた」。学徒動員の隊員同士、気分転換で雑談していると「娑婆(しゃば)っ気が多すぎる」と怒鳴られた。仲間うちで平静を装っても、便所で一人になると涙をこらえ切れなかったという。

 45年春、大分県の大神(おおが)基地へ移った。途中で訓練所に寄り、ベニヤ板の粗末なボートで敵艦に突っ込む特攻兵器「震洋(しんよう)」を見せられた。「こんな物に頼らんとどうにもならんところまで来た」と実感した。

 回天の製造所が空襲で壊滅したため訓練艇が足りず、訓練は10~20日おきに減った。搭乗し、狭い操縦室に閉じ込められるたび恐怖で身震いした。潜望鏡に水がかかって前が見えず「これでは敵艦にたどり着けません」と上申した。上官は「相手はでかい。どてっ腹に当たればよい」とこともなげに言った。

 8月15日、出撃の機会を迎えることなく戦争が終わった。瀬川さんは特攻基地での経験を「一切忘れろ」と上官に命じられた。別の上官は手りゅう弾を抱いて自決した。隊は統制を失い、基地の物資を手当たり次第持ち出す者も現れた。

 戦後、瀬川さんは京都大で学び、西陣でネクタイ製造卸会社を営んだ。特攻にいた事実は家族にも明かさず、長く沈黙を守った。今回の取材に記憶を懸命にたどって証言してくれた。「若い人へのメッセージは」と記者が尋ねると、瀬川さんはしばらく考えた後、ぽつりと語った。「人が人を殺すというのは、やっぱり難しいことです」。75年前に抱えていた葛藤は、今も忘れていない。

≪回天≫
 先端に爆薬を搭載し、搭乗員が自ら操縦して敵艦に体当たりする水中特攻兵器。1人乗りで全長約15メートル、直径約1メートル。脱出装置はなかった。1944年8月に兵器として承認された。回天記念館によると17~27歳の106人の搭乗員が戦死した。