「永田キング」の人生をたどった本。昭和初期の米国映画で人気だったマルクス兄弟を永田がまねた時のイラストを表紙にあしらった

「永田キング」の人生をたどった本。昭和初期の米国映画で人気だったマルクス兄弟を永田がまねた時のイラストを表紙にあしらった

 「早すぎた男」だったという。京都の鹿ケ谷(現左京区)に生まれ、戦前に活躍した「永田キング」というお笑い芸人。全盛期の昭和10年前後は、一世を風靡(ふうび)した漫才のエンタツ・アチャコ、喜劇王エノケン(榎本健一)らと並ぶ人気を誇った。京都や大阪だけでなく、東京の寄席でもトリを飾った。主演映画もある。


 ただ、戦後は大きな脚光を浴びることはなかった。ほかのスターのように評伝が出版されることもなく、時代の流れに埋もれていった。キングは、どんな芸で人々を沸かせたか。戦後は何をしていたか…。そんな謎や彼の人生に迫る本「永田キング」が刊行された。新京極にあった寄席富貴(ふうき)や京都花月など細かな出演記録もひもとき、知られざる芸能史をめくる趣きがある。


 著者は「てなもんや三度笠」や「花王名人劇場」を手掛けたプロデューサーの澤田隆治(87)。朝日放送の新人だった昭和30年代、キングの舞台を大阪で見た。キングは当時、息子たちと思われる計4人のグループで野球コントを演じていた。まだテレビのスローモーションがない時代に、スローモーションで滑り込んだり、回転してボールをつかんだりする芸を披露。「どこにもない新しい芸だった」と澤田は評する。


 「目を見張る芸を見せてくれたオマージュ」を込め、今から10年前、キングの足跡を調べ始める。手がかりは少なかったが、姉もしくは妹も漫才師だったこと、その自宅が三十三間堂(東山区)の近くにあったことが判明。自ら足を運び、キングのおいを探し当てたことから、視界は一気に広がっていく。


 キングは22歳だった1932(昭和7)年、吉本興業入り。しゃべくり漫才など「聞かせる芸」が主流の時代に、野球などスポーツの物まねで「見せる芸」を切り開いた。抜群の身体能力を生かした「スポーツ漫才」と呼ばれ、一時は総勢40人の一座を率いた。


 戦時中に召集令状が届き、南方戦線へ。終戦1年後に復員。戦後は進駐軍の兵士に野球芸がうけ、米軍キャンプを回って披露した。言葉は分からなくても、アクションなので通じたらしい。その後、米国に招かれ、NBCテレビやラスベガスのショーに出演。しかし、海外を巡っている間に、日本ではテレビの時代が訪れ、潮流に乗り損ねていく。


 77(昭和52)年、68歳で死去。斬新な芸で海外にも進出しながら、国内での居場所をなくしたキングに、澤田は「早すぎた男の悲哀を感じる」とつづる。計375ページ。忘れられた芸人への愛情がにじむ。鳥影社。3080円。=敬称略