さいとう・けい 1980年生まれ。専門は音楽学、日本音楽史。大阪大助教などを経て現職。著書に「1933年を聴く 戦前日本の音風景」「〈裏〉日本音楽史 異形の近代」。メディア時評も。

 日本学術会議会員に推薦された研究者が、「総合的・俯瞰(ふかん)的」かどうかという観点から、菅義偉首相による任命を拒否され、議論を呼んでいる。この問題はしばらく展開するだろうが、会議そのものの是非などの便乗的な議論を除けば、問題は首相による任命権の定義・是非と、拒否の理由・説明の2点である。

 私は近代文化の研究をしているので、後者、特に首相の「総合的」という言葉に関心がある。専門にこだわりすぎては、「総合的」な全体像を見失うのではないか、という不安は、学問だけではなく、様々な場面で分業の進んだ近代以降の社会に、ずっと付きまとってきたからだ。

 「総合的」という評価基準は万能である。分野内の基準で理解ができる「専門的」とは違って、きりがない。どれだけ視野の広い研究であっても、常にそこに入らない部分はあるのだから、「総合的ではない」という評価は、原理的にはすべての研究に対して、いつまでも用いることができるからだ。

 しかし、永遠に満たされないからこそ、「総合的」には魅力がある、とも言える。永遠に満たされないなら、自分なりの優先順位で満たしていこうという欲求すら喚起するだろう。

 たとえば約100年前の、社会学者マックス・ヴェーバーによる講演録『職業としての学問』(1919年)は、当時広がっていた、専門を旨とする学問に、個々の事実の認識ではなく、全体の「体験」を求める風潮を戒めている。人々は、ある種の芸術や政治がもたらす総合的な「体験」を学問にも求めた。彼は「体験」の提供は学問の仕事ではない、学問は専門に徹するしかないと述べた。

 一方で、専門内部にとどまるべしという彼は、学問は政治的主張をしてはいけないと説く。しかしそれは、単に学問は政治に隷属せよという意味ではない。彼は、学問の仕事の一つは「自分の党派的意見にとって都合のわるい事実のようなものを承認することを教えること」(尾高邦雄訳)と言う。

 10月9日のグループインタビューで首相は「総合的・俯瞰的」という言葉の出典を2015年の内閣府の有識者会議だと述べたが、出典は説明ではない。相変わらずこの言葉は漠として何も意味していない。任命しないという機能だけをもつ言葉だろう。もちろん、ヴェーバーの頃と現代とは社会の構造は異なるが、それでも100年後の現代に、「総合的」という言葉が、専門家を排する文脈で、ふと登場する。「総合的」の誘惑と、それが満たされない不安は、今なお学問と政治の周りを漂っている。(京都市立芸術大伝統音楽研究センター講師)