向島ニュータウン(京都市伏見区)

向島ニュータウン(京都市伏見区)

向島ニュータウン(京都市伏見区)

向島ニュータウン(京都市伏見区)

 向島ニュータウンに雨が降りしきる。一昨年9月、中国残留孤児1世の村岡竹雄さん(76)は台風18号の接近を伝えるテレビニュースを凝視した。「没听懂(聞き取れない)」。帰国して25年たつが日本語は不自由なままだ。チャンネルを変えると、居間にはいつも通り中国語の娯楽番組が響いた。京都市伏見区への避難指示発令を知ったのは、台風が過ぎてからだった。
 市営住宅の8階に妻と2人で暮らす。「火事ならベルが鳴るし、災害で避難が必要ならきっと誰か呼びにくる」。避難場所の小学校には行ったことがなく、持ち出し袋の用意もない。「上の階だから浸水の恐れはない。そんなに心配しなくても大丈夫」

 2011年3月11日。大地震の後、宮城県南三陸町に津波の到来を知らせる防災無線が鳴り響いた。ツナミ、タカダイ、ヒナン…。日常では聞き慣れない言葉の連続に、「英語で放送があったら、あの子は死なずに済んだかもしれない」。佐々木アメリアさん(61)は悔やむ。
 宮城県や岩手県沿岸部に嫁いだフィリピン出身の女性でつくる妻の会の80人のうち、3人が津波で命を落とした。その1人、来日2年目の20代女性は簡単な日常会話しか日本語を話せず、地域となじめずにいた。タガログ語で姉を意味する「アテ」と呼んで、佐々木さんを慕ってくれた。
 家族や自宅を失いながらも駆け付けた仲間がささやかな葬式をし、遺骨を母国へ届けた。彼女の夫も震災で亡くなった。「毎年あった形ばかりの避難訓練は、何にも生かされなかった」

 村岡さんは6歳で大陸で終戦を迎え、1989年に帰国。京都府城陽市の工場で働いた。夢に描いた祖国の暮らしは甘くなかった。中国語を話していて嫌な顔をされたり、マナーの違いに戸惑った。いまだに「中国人」と呼ばれることもある。
 老いる1世の仲間と夜間中学で日本語を学ぶ。向島で開かれる体操教室にも通う。「年だから日本語の上達は遅いけど、本当は住民と仲良くしたい」。向島の秋祭りでも、帰国者が二胡(にこ)演奏やギョーザ販売をし、身ぶり手ぶりで話す。
 もうすぐ中国で旧正月を祝う「春節」。伏見区で中国帰国者や家族の集いがあった。赤い堤灯、中国の歌謡曲が流れる。早口に中国語をしゃべり、冗談に笑い合う人たち。記者にはまるで分からない。その場の帰国者に中国語を教えてもらった。危険は「ウェイシェン」と発音。「避難して」は逃跑(タオパオ)。

 「楽しい活動を考えて、お互いに歩みよって」。それが壁を超える佐々木さんの秘訣。震災からもうすぐ4年。佐々木さんの暮らす南三陸町志津川地区にもまた春が来る。避難所にいた時、支援物資で調理するフィリピン出身者に、住民が興味を持って声を掛けてきた。豚肉を甘酢で煮た「アドボ」、焼きビーフンの「パンシット」…一緒に食べた。「私たちの存在を住民が認めてくれて、うれしかった」と佐々木さん。「フィリピンの家族に母国への避難を勧められたけど、ここで生きていく。私はもう『志津川人』なの」。朗らかに笑った。
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 災害時要援護者をテーマに京都新聞社と河北新報社が22日に京都市伏見区・向島ニュータウンで開催するワークショップ「京都むすび塾」に向け、東日本大震災の被災地と、ニュータウンの共通課題を探る。=3回掲載の予定です。

≪向島ニュータウンと中国帰国者≫ 1977年に入居が始まり、10階建て以上の高層団地に約1万3千人が暮らす。住民団体の調査によると、日本に永住帰国した中国残留孤児とその家族ら約300世帯が入居しているとみられる。帰国1世の老後などが課題になっている。