■芥川賞から20年、不動の地位


 清張は当時63歳。『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞して20年がたっていた。『砂の器』や『けものみち』などの社会推理小説や、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクション作品を手掛け、作家として不動の地位を確立していた。

 昭和を代表する国民的作家が、京都とはいえ東京から遠く離れた地の一研究者にわざわざ「生徒」として教えを請うたのはなぜなのか。

 「あれは、今から50年ほど前になりますかね」

 夏雄さんは、「綜芸舎」に一本の電話が掛かってきた日のことを語った。

 それは、清張の小説『火の路』の連載を新聞紙上で始める前年の72年という。

 この年、高松塚古墳で壁画が発見され、古代史に多くの人々が熱いまなざしを注いでいた。

 「父の本を何冊か送ってくれということでした」

■京都のホテルで面会


 自ら経営する出版社から出していた著書を何点か早速郵送すると後日、清張が京都市内に来る際にホテルでの面会を申し込まれた。

 「その時は忙しかったのか、ちょっと話をするという感じでした」。夏雄さんはそう振り返る。

 清張は後年、自著『古代史私注』(講談社文庫)で、その頃をこう振り返る。

 〈わたしが藪田さんの名を知ったのは末永雅雄氏(橿原考古学研究所長)の著書からで〉

 藪田が幅広い学識から新説を次々と出している所に着目した旨がつづられている。

 小説『火の路』は、清張にとって力のこもった作品だった。

■大胆仮説の支えに


 あらすじはこうだ。

 気鋭の大学史学科助手、高須通子が奈良の飛鳥地方に残る酒船石や猿石、益田岩船などの古代石造遺物の謎を解き明かす論文を発表する。その中で、酒船石ではゾロアスター教のハオマ酒を製造し、益田岩船は拝火壇として斉明天皇が築いたとする説が展開される。

 古代史に通じた清張が、自身の大胆な仮説を主人公の論文を通して唱える趣向になっていた。

 閉鎖的な学界に作家の立場から切り込む上で、大きな支えになったのが嘉一郎だった。

 嘉一郎の名は、在野がゆえに一般的な知名度こそ低かったが、学者の間ではよく知られた存在だった。

 『火の路』の執筆で清張を嘉一郎とともに支えた京都大学名誉教授の福山氏は、嘉一郎の没後に寄せた追悼文で「その着想の卓抜さと、流れるような行文の面白さでは、比類を見ない人」と嘉一郎を評した。「着想の卓抜さ」。清張が引かれたとは、その点のようだ。

 「天皇陵古墳」研究の第一人者、同志社大学名誉教授の森浩一氏(1928~2013年)も嘉一郎を仰いだ一人。

 嘉一郎を追悼する文で森氏は、若い頃に「綜芸舎」で古い書物の主要箇所を転写させてもらった思い出を振り返り、「字のかきかたひとつまで前で凝視されたあの一時間」を「知的におそろしかった体験」と回顧した。

■毒舌の老作家もたじろぐ


 こんな逸話も残る。

 作家であり僧侶でもあった今東光(1898~1977年)は自身が研究誌に掲載した史的随筆に嘉一郎が意見を寄せると「あんな怪物と関わり合うわけにはいかない」と苦笑したという。

 毒舌で知られた老作家をたじろがせるほどの嘉一郎とはどんな人物だったのか。そして、清張はなぜ嘉一郎に白羽の矢を立てたのか。

 小説『火の路』の執筆にあわせて清張と嘉一郎の間で交わされた膨大な書簡や、残された嘉一郎の日記から、これまでほとんど語られてこなかった「怪物」の素顔と、清張との知られざる友情が見えてくる。