女優の樹木希林は亡くなるまでの37年間、京都のある美術館に通い続けていた。厳しい目で知られる希林を、そこまで引き寄せたものとは何だったのか。(THE KYOTO=樺山聡)
■言葉の種をもらいに
2018年9月に75歳でこの世を去った女優の樹木希林。個性派俳優として数々の映画やテレビドラマ、CMで活躍。生前の言葉を集めた著書『一切なりゆき』(文春新書)が昨年の年間ベストセラー1位に入り、没後も注目を集める。
「希林さんは、ここに言葉の種をもらいに来るのって、いつも言っておられました」。私設美術館である「何必館(かひつかん)・京都現代美術館」(京都市東山区)の館長、梶川芳友(78)は語る。
希林はこの美術館に、亡くなるまで通った。
八坂神社に近い「何必館」は四条通沿いの5階建てのモダンなビル。その全階が展示空間になっている。
最大の特徴は最上階にある「光庭」。吹き抜けで空に開かれた小さな坪庭が、エレベーターの扉が開くと出迎える。そこには山モミジが一本。そして、庭の向こうには茶室。その静寂が、繁華街の祇園という場所にいることを忘れさせる。
この「光庭」こそが、希林を何必館に呼び込んだ。梶川がこの美術館を開いた1981年、テレビ番組の仕事で庭を見に訪れた。
希林38歳、梶川40歳。
「私、美術のことは全く知らないの」
希林は言った。
「資質としては最高ですね」
梶川は返した。
「下手に知っている人ほど厄介なものはない。全く知らなければ、どんな色にも染まることができる」
梶川は、自らが美術館をつくるに至った長い道のりを希林に語った。