■見た瞬間で金縛り

 1枚の絵との劇的な出会いから全てが始まった。

 63年秋。22歳の梶川は自分の進路について相談に乗ってもらうため、ある人と平安神宮の大鳥居の下で待ち合わせをした。少し早く着いたため、開館したばかりの国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)で時間をつぶすことにした。

 日本画家、村上華岳(1888~1939年)の作品展が開かれていた。

 80点ほどの作品が展示されている中で唯一、「太子樹下禅那(たいしじゅかぜんな)」という絵の前で足が止まった。菩提樹(ぼだいじゅ)の下で座禅する若き日の釈迦(しゃか)が描かれたその絵にくぎ付けになった。

 「見た瞬間、金縛りに遭ったみたいになった。世の中には、こんな絵を描く人間がいるのかと驚いた」

 これまで体験したことのない、雷に打たれたような感覚に襲われた。

 「係員に『閉館の時間ですよ』と肩をたたかれてわれに返った。そのまま約束を忘れて東京の下宿に帰ってしまい、後で先方にひどく怒られました」

 それからは「華岳巡礼の旅」が始まった。「少しでも華岳のことを知りたい」と美術店で勤務しながら全国の華岳コレクターを訪ね、彼の作品を通して華岳という人間を見つめた。

 「なぜ自分はあの絵にこれだけ魅せられるのか」。その答えを探す旅だった。

 「太子樹下禅那」は神戸の貿易商が所蔵していた。

 しかし、「これは自分のために描かれたものだと、美術館で見た瞬間に思った」。手に入るかどうか分からないにも関わらず、ついには「あの絵を見るための最上の場を」と、自らの設計で美術館を建て始めた。

 「われながら異常というか、狂気じみていた」

 ある日、所蔵者側から電話を受けた。華岳の後援者でもあったコレクターの当主はすでに亡くなっており、その子息からだった。

 「一度遊びにいらっしゃいませんか」

 あの絵に自分が夢中になっていることは先方も知っているはず。代が替わり、手放す決断をしてくれたのか。それとも、別の美術館に譲ることになったという報告だろうか。

 期待と不安を胸に神戸の自宅を訪れた。

 「あなたの夢をかなえてあげよう」

 待ち望んだ言葉だった。当主の子息は続けた。

 「夢をかなえるために、あなたに差し上げる」

 梶川は天にも昇る思いで「ありがとうございます」と絵を引き寄せると、そそくさと邸宅を後にした。雪の中、絵を抱きかかえて京都に戻ったという。

 「感激のあまり、1週間ほど家にこもって絵を見続けた」

 81年2月26日。初めて見た日から18年。ようやく運命の絵を手元に引き寄せた。

 同年11月に「何必館」を開館させ、「太子樹下禅那」を飾るために設けた茶室に、そのものを掲げた。

 「この話を聞いた希林さんは、一人の人間をそこまで駆り立てる絵の力を知りたいと思ったようです」

 希林は以来、「何必館」で開催された120回余りの展覧会に足を運んだという。

 「何必館」。この不思議な名前は、定説を「何ぞ 必ずしも」と疑う自由な精神を持ち続けたいと、梶川が名付けた。その精神に共鳴した希林との40年近くにわたる対話が始まった。(敬称略)

梶川芳友(かじかわ・よしとも)
 1941年、京都市生まれ。80年に財団法人京都現代美術財団を設立し、理事長となる。翌年に何必館・京都現代美術館を創設し、館長に就任。展示企画だけでなく、エッセイストとしての活動のほか、クリエーティブディレクターとしてさまざまな文化事業に携わる。著書に『村上華岳』『パウル・クレー』(いずれも何必出版)、『魯山人への手紙』(求龍堂)など。日本ペンクラブ会員、全国良寛会顧問、富山県芸術文化顧問。

写真は何必館提供