朝鮮戦争で破壊された街並み(1950年7月4日撮影、韓国・水原)

朝鮮戦争で破壊された街並み(1950年7月4日撮影、韓国・水原)

 小学生の時に韓国で朝鮮戦争に巻き込まれた在日コリアンの女性が京都市にいる。南侵した北朝鮮軍に自宅を一時接収され、米軍機の爆撃におびえた70年前の記憶は今も鮮明だ。朝鮮戦争で南北の分断は固定化され、自身は長年、国籍が壁となって祖父母の墓参りさえできなかった。女性は「なぜ朝鮮は二つに分かれてしまったのか」と嘆く。

 京都市で生まれた女性(79)。母の体調が思わしくなかったことから1歳だった1942年、歌手の新井英一さんの曲「清河(チョンハー)への道」で知られる、現在の韓国・清河で暮らしていた母方の祖父母に預けられた。

 当時、朝鮮半島は日本の統治下だったが、45年8月15日に解放された。48年8月、米国が占領した北緯38度線以南に韓国が成立。翌月、ソ連が占領した38度線以北に北朝鮮が成立した。

 50年6月に朝鮮戦争が始まり、攻勢を強めていた北朝鮮兵約70人が自宅にやって来た。「あとは自分たちが使わせてもらう」と告げると、女性たちに一部屋だけを残し、台所も牛小屋も占拠した。

 兵士たちは、鉛筆や消しゴム、ノートをどこからか持ってきてプレゼントしてくれたといい、「勉強を教えてくれたり、お手玉で遊んでくれたりする親切な人たち」との印象を持った。

 それでも恐怖を感じたことがある。ある日、村人の密告によって叔父が韓国軍の兵士だと知られ、幹部が事情聴取に来た。祖父と女性は肩を寄せて部屋で震えていたが、祖母が「誰が喜んで一人息子を兵隊に出すのか」と徴兵のためやむを得なかったことを伝え、説得した。

 国連軍と韓国軍の巻き返しによって北朝鮮兵が自宅を去るまでの1カ月間ほど、制空権を握っていた米軍機は上空から爆弾を落とし続けた。女性は飛行音の爆音を聞くたび、自宅裏の防空壕やトウモロコシ畑に逃げ込んだ。避難が間に合わず土手ののり面に体を伏せたこともあった。自宅の塀は吹き飛ばされ、小学校は開戦から53年7月の休戦まで休校となった。

 休戦後、燃料の薪や山菜を求めて近くの山に入ると、軍服姿の遺体があちこちに放置されていた。叔父は部隊が全滅する中、ただ1人だけ生還したが、ショックは大きく前線での出来事を一切口にしなかった。

 女性は13歳の時、親に呼ばれ、再び京都に戻った。自宅には戦況を知るために仕入れたラジオがあり、離れて暮らす父や母が自分のことを案じてくれていたのだと分かった。

 国籍の壁を意識したのは高校生の頃。祖父が亡くなったと知り、急いで駆けつけたかったが、女性は朝鮮籍だったことから韓国に入国できず「泣くしかなかった」。それから約40年後に韓国籍となり、父や妹と一緒に念願の墓参りを果たした。

 現在、女性の親族は韓国にいて、夫のきょうだいは北朝鮮で生活している。朝鮮半島情勢の緊迫化を伝えるニュースに接するたび、胸が締め付けられるという。「あれから70年がたつのに、同じ民族同士が分かれているのはつらく、悲しい」とため息をついた。