京都大人文科学研究所の藤原辰史・准教授。「意味のないこと、目的がないことを許容しない社会は生きづらい」と語る

京都大人文科学研究所の藤原辰史・准教授。「意味のないこと、目的がないことを許容しない社会は生きづらい」と語る

「縁食論」(ミシマ社刊)

「縁食論」(ミシマ社刊)

 ひとりぼっちで食べるのでもなく、「一家だんらん」を強制されて食べるのでもなく、緩やかな関係性の中で食事すること。京都大人文科学研究所准教授の藤原辰史さんは、新著「縁食論(えんしょくろん)-孤食と共食のあいだ」で、第3の食の可能性を追い、目的に凝り固まったこの社会を解きほぐそうと試みる。

 縁食とは、藤原さんの造語。その場に複数の人間がいるから孤食ではないけれど、強い共同体意識を求める共食でもない。この場合の「縁」とは「深くて重いつながりではなく、単に、めぐりあわせ、という意味だ」という。それは「目的でつながりすぎた社会」への批判でもある。「目的なく街を歩いたり、人と会ったりすることは人間にとってとても大切。今の社会は、目的や効率が重視され、あらゆるものに値段がついている」と語る。

 縁食の好例として挙げている「子ども食堂」を考えれば分かりやすい。「子どもたちは、来たい時に立ち寄る。誰かがいるけれど、無理に話さなくてもいい。緩やかなつながり。一方、世話をする大人たちにとっては、おしゃべりの場にもなっている」。貧困家庭の支援という単一の目的ではなく、多機能性、「弱目的性」が魅力という。そこから、町の大衆食堂や居酒屋、「縁側」など、食べものを通じた公共空間の可能性や多目的性をめぐる思考へと展開していく。

 歴史学者の藤原さんが、なぜ縁食の思想にたどり着いたのか。「現代史の底流には常に『飢え』の問題がある」といい、台所(キッチン)の研究に取り組んでいた。「20世紀になってプライベート化が進むキッチンが、戦時の共同炊事のように、危機の時代になると共有化される」。その時、ちょうど東日本大震災の「炊き出し」の光景が目に飛び込んできた。「白黒写真の中の歴史が、カラーになって見えた瞬間だった」

 あらためて振り返ってみれば「自分のキッチンを開放して少しお金をもらってコミュニティーを作っていたり、オーガニック野菜の直売所で屋台の椅子を並べたり、市場経済と距離を置いた食の共有はたくさんあった」といい、縁食論は「そうした営みを概念化したにすぎない」と語る。


 では、その縁食が困難になった現代の危機「コロナ禍」にはどう向き合えばよいのだろう。藤原さんは、逆説的に、縁食への欲望があぶり出された、とみる。「オンライン飲み会が話題になったけれど、人は電波を通してまで飲んだり、食べたりする営みを共有したかった。ヨーロッパではカフェに出たくて、暴動に近いことまで起きている。外に出て、家族や家族以外の人とテーブルをともにすることが、人間の行動の基本的なところにあった」


 「ニューノーマル(新しい常態)」の言葉で、そもすれば、仕切りを立てて一人で食べる「孤食」を求めるような動きもある。藤原さんの考えは逆だ。「私たちの社会は、コロナに耐えられなかった。抜き打ちテストに失敗したのだ」と捉え、「コロナが終息した後は、現代社会がひたすら切り崩してきた『共有の場所』をもう一度作る必要がある。縁食の場は、その拠点になるだろう」と話している。
 「縁食論」はミシマ社刊、1870円。